桜庭章司。 ロボトミー殺人事件

ロボトミー殺人事件

桜庭章司

本当に実在した恐るべき手術!ロボトミー手術とは? これは 1935年、ロンドン国際神経学科会のとある科学者がチンパンジー2匹の 脳の前頭葉を切除すると狂暴性が収まり従順になるという論文を発表しました。 これを聞いた 科学者モニスは、 人間に適応できると考えメスを使って前頭葉の一部を切り取る術式を 精神疾患の治療法として論文発表しました。 これが最初の「 ロボトミー手術」の誕生です。 更にこれを聞き、ロボトミー手術に強い関心を持った 神経学者フリーマンは、小槌とアイスピックを使って手軽に前頭葉の一部を切り取る独自の術式を開発します。 その後、フリーマンは死体で練習した後実用化できる確信を得ます。 人間に対して手術開始 1936年9月、フリーマンはヨーロッパから手術器具を集めると、精神疾患6人に対して手術を開始します。 6人のうち3人は退院して見事に社会復帰をしました。 フリーマンは、疾患改善を確認すると統合失調症だけでなくうつ病やその他の精神及び身体的状態の治療にも使用できると主張します。 ロボトミーは 魂の手術、このように発言しています。 その後フリーマンは、自分の自家用車のバンで全米の精神病院を訪問する旅行を開始。 ロボトミー手術を受ける事で症状が改善したことが広まり始め、奇跡的な処置として宣伝されて一般の人にも注目を集め、学術の需要は増え続けました。 そして、 1949年になると ロボトミー開発者のモニスが ノーベル生理学医学賞を受賞することになります。 まさにロボトミー手術は、世界が注目する治療法となり爆発的に広まりました。 ロボトミー手術の問題が発覚 ノーベル賞を受賞したにも関わらず、そんな喜びも束の間 ロボトミーに暗雲が漂い始めます。 なんと、手術による重篤な副作用「 知性や感情の喪失」が問題化し始めたのです。 ごくやんちゃな少年だった、 ハワード・ダリー少年は精神疾患ではありませんでしたが、継母が彼のわんぱくな性格を大人しいものに変えたいと願い、詳しい説明もなく手術の依頼をしてしまいます。 手術後 ハワードは 精神が不安定になり、家族から捨てられ周囲の人々には「 変人」と言われ、50代まで孤独と喪失感に苛まれました。 後に著著「 僕の脳を返して」を出版し自身の経験を綴りました。 また、 アメリカ大統領ジョン・F・ケネディーの親族は、思春期に暴力的だった 姉妹マリーローズ・ケネディーにロボトミー手術を受けさせてしまいます。 術後、失禁症や幼児化などの後遺症が残ってしまい、何時間もぼんやりと壁を見つめ続けたり話す事が支離滅裂になったりして 人格は破壊されました。 更に 、日本でもロボトミー手術を受けた患者が合意のないまま手術を行った精神科医の家族を復讐として殺害した事件にも発展しています。 この事件は「 ロボトミー殺人事件」と呼ばれています。 この 日本で起きたロボトミー殺人事件について詳しくご紹介します。 日本で起きたロボトミー事件の全貌 1921年1月長野県にて 桜庭章司さんという人が生まれます。 彼は少し神経質でしたでしたが強く明るい子でした。 20歳の頃、独学で英語を勉強し通訳の資格を取得し、独学にも関わらず凄い英語力で占領軍事基地のある新潟の電話局に通訳として就職します。 なんと、 米軍のOSI(諜報機関)にスカウトされます。 しかし、 病気で弱っている母親がいた為にスカウトを受けるが、地元に帰る事になり 土木作業員として勤務する事になります。 悲劇の始まり 桜庭は路肩工事中に 手抜き工事をを発見。 現場の班長にそれを注意したところ、社長から口止め料として5万円を渡され受け取ってしまいます。 後日 社長が「 金を騙し取られたんだ」と起訴され、桜庭は 懲役1年6ヶ月の執行猶予3年の判決をされてしまいます。 執行猶予中の間は、ダムの工事現場で働いている時に 賃金不払いと不 当解雇問題が発生した為に、社長に直談判しに行きます。 すると、 恐喝で通報され執行猶予が無くなり逮捕されてしまいます。 桜庭の転機 1961年8月に刑務所を出所し翻訳のバイトを始めます。 翌年の1962年の春、スポーツ新聞のいい加減な情報に腹が立ち新聞社等にクレームの手紙を送ります。 ところがクレームの手紙を送った所から、 凄い文の構成力だと評価され原稿を依頼されるようになります。 33歳になり桜庭は、 ライターに転身して サラリーマンの月収の 5倍は稼いでいました。 再び悪夢に・・・ ライターの仕事をして順風満帆に生活をずっと送る事ができるかに思えましたが、母親の面倒の事で妹と口論になります。 以前に、母親の面倒を妹に任せておけば逮捕される事はなかったんだ!! そして、妹と口論の末に物を壊してしまい 器物破損で逮捕されてしまいます。 悪魔のロボトミー手術開始 妹との口論の末に逮捕されてしまった桜庭ですが、前科が2犯ある事も含めて精神疾患を持たれ検査を受ける事になります。 勿論、桜庭は過去の逮捕の事も訴え否定しますが、 否定すればするほど精神異常と言われてしまい医師からは、精神病気質と判定されてしまいます。 釈放を求めますが、警察により 保健所に強制措置入院させられてしまいます。 入院した桜庭に対して、ロボトミー手術を強制的に行おうとしていましたが、桜庭本人は 主治医の藤井という人に手術の中止を訴えますが拒否されてしまいます。 そもそも手術は母親の許可が必要でしたが、藤井は何も知らない母親から承諾書を得ます。 そして、桜庭には 肝臓の手術を行うと 嘘をついてロボトミー手術の一種を強行します。 手術から4ヶ月後 桜庭は手術から4ヶ月後、退院しますが 全くの別人になっていました。 感情を失い ライターとしての仕事が出来なくなる てんかん発作を患う どれだけ仕事をしても感情がないので意欲がわかず、やる気も悲しみもわいてこない状態になってしまいます。 ロボトミー殺人事件の発生 1979年9月26日、桜庭は以前から「 とある感情」だけが残っていたそうです。 自分をこんな体にした! 主治医 藤井 への 復讐! この時を決意した動機を彼はこのように言っていました。 「 海に沈む美しい夕陽を見ても何も感じない自分に気付いたから、あいつを殺して自分の死のう」とこのように言っていました。 そして、桜庭は藤井の自宅にデパートの配達員を装って訪問し、ダンボール箱を渡しながら藤井の 妻とその 母親を押さえつけ、手足に手錠をかけ更に目と口をガムテープで塞ぎます。 その後、藤井が帰ってくるのを待っていましたが、結局藤井が帰宅しなかった為に彼は二人の喉を切り付けて胸を刺して殺害します。 桜庭は 強盗殺人に見せかける為に、 通帳と現金46万円入りの給与袋を奪って逃走。 桜庭逮捕 藤井の母親と妻を殺害したその夜、池袋駅近くにて朦朧とする桜庭を警察官が発見し職務質問をされます。 その時に、刃物を持っていたので 銃刀法違反の容疑で現行犯逮捕されます。 翌日藤井が遺影に帰宅すると、妻と母親の遺体を発見し警察に通報したのちに桜庭は殺人罪で起訴されました。 裁判開始 桜庭は精神鑑定を受けますが、ロボトミー手術の影響なのか分かりませんが 検察からは「 責任能力あり」と判断され、 脳波検査では「 異常なし」と判定。 しかし、 別の検査では 全く逆の結果とおかしな判定結果が出ています。 そして、1993年7月7日に裁判所は無期懲役を言い渡し、検察が死刑を求刑します。 桜庭本人は、非人道的でかつ身勝手な手術の異常性についての問題を世間に明るみにするのが目的でした。 裁判中に桜庭がこのように訴えます。 「 私に対する判決は死刑か無罪にしてほしい、一審での無期懲役は中途半端で私がされたチングレクトミー手術の問題点を全く理解していない」このような発言というのは。 無罪=手術の異常性を認める。 死刑=生きていても仕方がない。 最高裁の判断は? 裁判が遂に最高裁までいき、検察側は新たな証拠として検事調書と桜庭のカルテを提出します。 しかし、カルテには「 脳波は以上」と記されていました。 1995年9月11日、カルテの脳波の異常が原因で最高裁では死刑ではなく無期懲役の判決をされて、翌年の1996年11月16日に 無期懲役が確定されます。 桜庭は服役中に「生きていても仕方がない」と考え自死権とそれを認めない精神的苦痛により、160万円を国に求める裁判を起こしますが、法的に認められず事件は幕を閉じます。 ロボトミー手術の廃止 ロボトミー手術の 致命的な欠陥は明らかで、 前頭葉の一部を切除する事で感情の喪失が顕著に表れます。 手術を受けた多くの人は、 人間性を失いもはや独立して生きる事ができない状態になり、てんかん発作などの再発は普通に見られた上に 患者の15%は手術によって死亡しています。 それによって、ロボトミー手術によって予測不可能な副作用の大きさなどから結局精神医学では、エビデンスがない 禁忌と見放されて廃止に追い込まれました。 40年間でフリーマンが23の州で行った3,439件ものロボトミー手術のうち、2,500件は彼が正式な外科的なトレーニングを経ずに実施したアイスピック・ロボトミーでした。 まとめ 本当に実在した恐るべき手術!ロボトミー手術についていかがでしたでしょうか。 科学や医療の発展は失敗があるからこそではあるものの、この恐ろしい手術については二度と行ってはならない手術です。 人間は時に「 神の領域」に足を踏み入れるような過ちを犯しますので、このような恐ろしい事がおきない事を祈るしかありませんね。 あなたは、ノーベル賞を受賞した恐ろしい手術である「 ロボトミー手術」について何を感じましたか?.

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ロボトミー殺人事件は精神外科手術によって感情を失った桜庭章司による復讐劇。

桜庭章司

ロボトミー手術は、頭の両側に穴をあけ、その穴にロボトームという長いメスをいれて前頭用を切除するという外科手術の一種である。 前頭葉は、意志や言語の理解、計画性、怒りや悲しみという衝動の抑制等、ヒトの社会性を司る器官であり、そこを切る事で凶暴な精神疾患者や自殺癖のある鬱病患者に絶大な効果があったと言われている。 また「人間の精神を奪いロボットのような状態にしてしまうのでロボトミー」という説が囁かれているが、これは誤解である。 ロボトミーという言葉は、肺や脳などで臓器を構成する大きな単位である「葉」を一塊に切除することを意味している。 いわゆる外科の術語だ。 また、日本では別名、チングレクトミー手術ともいう。 今回の記事で言うのロボトミーでは「前頭葉切除」を意味する。 癌のため、肺の一部分を葉ごと切除する事も、ロボトミー手術のひとつであるとも言える。 また、この手術がきっかけで殺人事件がおきた過去もある。 世界初のロボトミー手術は、1935年に、ヒトではなくチンパンジーに行われた。 チンパンジーの前頭葉切断を行ったところ、普段とても凶暴だったチンパンジーの性格がとても穏やかになったとの報告があったのだ。 この報告をうけ、同年にポルトガルの神経科医であるエガス・モニスと、外科医であるペドロ・アルメイダ・リマがタッグを組み、初めてヒトを利用し前頭葉の切除を実行した。 さらに1936年には、ジョージ・ワシントン大学でも、ウォルター・フリーマン博士の下、アメリカで初めてのロボトミー手術が行われた。 対象者は、63歳の激越性うつ病患者の女性だったという。 1930年台当時は、精神疾患は治療が不可能と思われたが、ウォルター・フリーマンの手術によって、ある程度は抑制できるという結果がでた。 後遺症や副作用には目もくれず、世界的に注目されることとなる。 しかし蓋をあけてみると、現在と違いレントゲンもない時代である。 現在のように脳の中をカメラや写真で見ることもできない状態で、ウォルター・フリーマンたちは無理矢理頭蓋骨に穴を開け、前頭葉を切除するという非常に乱暴で実験的な手術を行っていた。 また、それによりモニスは世界で広く知られた。 その名声はノーベル賞受賞という形で最高潮に達する。 エガス・モニスの前頭葉の一部分を切除する治療法(発案された当時はロイコトミーと呼ばれていた)を、知ったウォルター・フリーマンは、エガス・モニスを師匠と仰ぐようになった。 そしてそれを「ロボトミー」と呼ぶ術式に発展させた。 また、ロボトミーを開始して10年後、ウォルター・フリーマンは、イタリアの精神科医アマロ・フィアンベルティの論文より、眼窩(眼球を収める頭蓋骨のくぼみ)を経由して脳に到達する技法を知った。 それを使えば、頭蓋骨を砕く事なく脳にメスを入れる事ができるのである。 この新しい技法について実験を行った後、ウォルター・フリーマンは「経眼窩ロボトミー」を完成させる。 本人いわく、ウォルター・フリーマンは3500件のロボトミー手術に携わったという。 1979年、9月の出来事である。 元スポーツライターだった桜庭章司(当時50歳)が、ロボトミー手術(チングレクトミー手術)を受けたことで自身の人間性を奪われたとして、執刀医の殺害を目論み医師の自宅に押し入った。 執刀医の妻と母親を拘束し、執刀医本人の帰宅を待つが、帰宅しなかったことから妻と母親をナイフで殺害。 金品を奪って逃走する。 偶然、池袋駅で職務質問した警察官に、銃刀法違反の現行犯で逮捕され事実が明らかとなった。 1993年、東京地裁で無期懲役の判決が下る。 しかし検察側・桜庭章司側双方が控訴、1995年に東京高裁が控訴を棄却したため、桜庭章司側が上告するも1996年に最高裁で無期懲役となった。 チングレクトミー手術は、患者の攻撃性や爆発性を選択的に除去する効果があるという大義名分のもとに手術が行なわれてきた。 ロボトミー手術と同様、患者の頭皮を開いてから頭蓋骨を切り取って脳硬膜を開き、大脳間裂を広げて外科的な傷を加える手術をチングレクトミー手術という。 犯人である桜庭章司が、何故この手術を受ける事となったのか、筆者は背景を追ってみる事にした。 彼は、1992年1月1日、長野県松本市で次男として生まれた。 子供の頃から神経質なところがあったが、気が強く明るい子だったという。 小学校卒業後、東京高等工学校(現・芝浦工業大学)付属工科学校に進学したが、家庭の生活を支えるため、1年で退学して就職することとなる。 1945年(終戦の頃)、松本市に戻り、町のジムでボクシングの練習をやり始めた。 19歳の時点で、社会人ボクシング選手権大会出場して優勝する程の腕前があったという。 その後彼は、20歳のときから、独学で英語を勉強しはじめた。 「これからは英語の時代」を確信して通訳の資格を取得したという。 すぐに彼の英語力は評価され、占領軍基地のある電話局に通訳として就職した。 その後、米軍のOSI(諜報機関)にスカウトされ、さらに英語力に磨きをかけたという。 これもすべて、貧困に苦しむ家庭を救うためだったのだ。 猛勉強したのだろう。 だが、病躯の母親の面倒を見るため、松本に帰ることになった。 松本には英語を生かす職場がなかったため、体力に自信のある桜庭は日銭稼ぎに土木作業員として働くことになった。 桜庭は土木作業を続けているとき、路肩工事の手抜きを発見した。 生真面目な精神をもつ彼は、それを班長に注意すると、その夜、桜庭は社長に呼ばれ小料理屋に連れて行かれて、5万円を握らされた(当時では大金である)。 なんとその後、桜庭は警察に逮捕されたという。 路肩工事の手抜きを不正とし抗議した際、口止め料の5万円を受け取り、これを会社は恐喝行為として訴えたのだ。 この事件がきっかけで、一度彼は刑務所に収監される。 出所後は翻訳の仕事から、海外スポーツライターとして活動を始め、事務所を開いて実績を積んでいった。 精神病質と鑑定された桜庭章司は精神科病院に入院となった。 病院内で知り合った女性がロボトミー手術の副作用により人格が変わってしまい、その後自殺したことに正義感の強い彼は激怒した。 執刀医を問い詰めた際、彼は危険だとしてロボトミーの一種、チングレクトミー手術を強行される。 この医師は、桜庭章司の母親に詳しく説明せずに手術の承諾書にサインをさせたといわれている。 退院後、彼はスポーツライターに戻ったが、感受性の鈍化や意欲減退などの副作用でまともな記事を書けなくなった。 精神を蝕まれながらも後遺症に悩まされ強盗事件を起こす。 出所後も彼は後遺症と副作用に悩み続け「ロボトミー手術(チングレクトミー手術)の問題点を世間に知らしめる」という意思の下、犯行に及んだ。 裁判で再び精神鑑定を受け責任能力有りと判定された。 しかし検査の際、脳内に手術用器具が残留していたという。 当然、脳波に異常がある事も明らかとなった。 桜庭章司は「無罪か死刑でなければロボトミー手術(チングレクトミー手術)を理解していない」として無罪か死刑のどちらかを望んでいた。 しかし、1996年に最高裁で無期懲役が確定となった。 精神疾患と前頭葉に深い関わりがあるという理論は、現在でも支持されている理論である。 実際に、脳に電気刺激を与えるという電気けいれん療法(ECT)は、重いうつ病や躁病あるいは緊張病(統合失調症のあるタイプ)の患者に対して、実際に行われている。 抗うつ薬が効かない。 あるいは副作用がでてやめてしまったりした人。 ほかの治療法でも効果がない人。 食べることや飲むこと等、当たり前の事もできなくなってしまい、生命を維持するため事が困難となり危険にさらされている場合に行われる。 治療の内容としては、こめかみにつけた電極を通して電流が脳に流れ、発作(けいれん)を起こさせるもので、当たり前だが慎重に行う。 患者が怪我をすることはまずないと言っていいだろう。 また、電流を流すので、麻酔薬や筋弛緩薬(筋肉の緊張をゆるめる薬)を使い、治療中は麻酔薬で眠った状態のままだという。 普通、ほかの治療法ですべて効果が見られなかった場合や、以前にこの治療法でよくなった方に対して行っている。 「電気を脳に通す」というだけで一歩のけぞってしまうが、筆者が前章で紹介した、直接前頭葉をグリグリ切り取るようなロボトミー手術よりはかなり進歩したのではないだろうか。

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ロボトミーの歴史と事件 精神外科の犯罪 【これは洗脳と関係がありそうなので】

桜庭章司

小学生のとき、東京に移った。 神経質なところがあったが、気が強く明朗闊達な子であった。 小学校卒業後、東京高等工学校(現・芝浦工業大学)付属工科学校に進学したが、貧窮家庭の生活を支えるため、1年で退学して工員になった。 1945年(昭和20年)の終戦の頃、松本市に戻り、商売をしながら町のジムでボクシングの練習をやり始めた。 19歳のとき、北陸5県社会人ボクシング選手権大会にライト級で出場して優勝した。 1949年(昭和24年)、20歳のとき、「これからは英語の時代」を確信して独学で英語を勉強し、通訳の資格を取得した。 その英語能力をかわれ、占領軍基地のある新潟の電話局(現・NTT)に通訳として就職した。 その後、米軍のOSI(諜報機関)にスカウトされ、英語力に磨きをかけた。 だが、病躯の母親の面倒を見るため、松本に帰ることになった。 松本には英語を生かす職場がなかったため、体力に自信のある桜庭は日銭稼ぎに土木作業員として飯場で働くことになった。 飯場では喧嘩が絶えなかった。 ある日、刺青をした土木作業員が出稼ぎの農民を殴っているのを見て、桜庭は刺青の男を叩きのめした。 ボクシングで鍛えたパンチは衰えていなかった。 桜庭は土木作業を続けているとき、路肩工事の手抜きを発見した。 班長に注意すると、その夜、桜庭は社長に呼ばれ小料理屋に連れて行かれて、5万円を握らされた。 桜庭には作家になりたいという夢があった。 そのために読書や執筆に専念したかった。 5万円あれば、しばらく働かなくても暮らせると思い、悪いこととは知りながら受け取ってしまった。 その後、桜庭は警察に逮捕された。 刺青の男が訴えたのである。 訴えにより、事情聴取された社長は、金を脅し取られたと供述した。 桜庭は暴行と恐喝容疑で起訴され、懲役1年6ヶ月・執行猶予3年の判決を受けた。 1958年(昭和33年)8月、ダム工事現場で働いていたとき、賃金不払いと不当解雇問題が発生した。 桜庭は社長宅に談判に行ったが、恐喝容疑で逮捕された。 執行猶予は取り消され、12月、長野刑務所に収監された。 1961年(昭和36年)8月、刑務所を出所した桜庭は、東京で鉄筋工として働きながら、翻訳会社を介して翻訳のバイトをした。 1962年(昭和37年)の春ごろ、2、3のスポーツ新聞を見て、海外スポーツ情報のいい加減な紹介に腹が立った。 桜庭は幾つかの新聞社や雑誌社にクレームの手紙を書いて出した。 手紙を読んだ編集者たちは桜庭に原稿を依頼してきた。 33歳になっていた桜庭はこれを契機にライターへ転身した。 その後の仕事は順調に運び、資料整理のために2人の学生アルバイトを雇うほどになった。 月収は10万円を超え、当時の中堅サラリーマンの3、4倍は稼いでいた。 1964年(昭和39年)3月、桜庭は東京都板橋区の妹宅に立ち寄った。 老いた母親のことで話し合っているうち、喧嘩になった。 桜庭はそばにあった人形ケースなどを壊した。 妹の夫が110番通報した。 志村署の警察が駆けつけ、桜庭は器物破損の現行犯で逮捕された。 翌日、妹夫婦は告訴を取り下げたが、警察はさらに1週間留置し、桜庭の過去を調べ、暴力、恐喝などの前科を洗い出した。 繰り返される暴力行為は、精神疾患からくるものとして、桜庭は世田谷区の都立梅ヶ丘病院に連れて行かれ、精神鑑定にかけられた。 担当の医師は桜庭を「精神病質」と鑑定した。 桜庭は釈放を求めたが、警察によって今度は、3月11日、東京都多摩市の聖跡桜ヶ丘の桜ヶ丘保養所(現・桜ヶ丘記念病院)に連行され強制措置入院させられた。 桜庭はスポーツライターとして編集者から信頼されていたので、入院後も原稿執筆を続け、編集者は病院へ原稿を受け取りにきていた。 桜庭は拘禁中に精神外科手術をされることをおそれていた。 それは、入院中に、八重という20歳くらいの女性が精神外科手術をされ、担当の藤井澹(きよし)医師が手術は大成功だったと言っていたにもかかわらず、約1ヵ月後に八重が首吊り自殺したからだった。 桜庭は精神外科手術によって廃人にされることをおそれ、主治医である藤井医師に対して明確に手術の拒否を告げていた。 また、手術するには母親の承諾が必要であることが分かっていたので、桜庭は安心していた。 ところが、藤井医師は何も解らない母親から承諾書を取ってしまった。 11月2日、桜庭(当時35歳)は藤井医師から肝臓検査と称して、全身麻酔をかけられ、加藤雄司医師によって、ロボトミーの一種であるチングレクトミーという精神外科手術を強行された。 チングレクトミー手術は、患者の攻撃性や爆発性を選択的に除去する効果があるという大義名分のもとに手術が行なわれてきた。 患者の右前頭部の頭皮を開き、頭蓋骨を切り取って脳硬膜を開き、大脳間裂を広げて視認できる脳梁のやや上部に位置する帯状回転(帯回ともいう)の前部に外科的侵襲を加える手術をいう。 ロボトミー lobotomy の lobo- は、中肺葉や前頭葉の「葉」という意味で、-tomy は「切断」「切除」を意味する。 ロボトミーは正式には prefrontal lobotomy といい、「前部前頭葉切截(せっせつ)術」と訳されている。 ロボトミー手術を発明したのは、ポルトガルのエガス・モニス 1875-1955)で、リスボン大学神経科教授であり、下院議員や外務省高官を歴任した政治家でもあった。 1935年(昭和10年)、モニスは60歳のとき、ロボトミーの基本を考案、治りにくいうつ病や不安神経症の患者に手術を実施して、効果絶大と発表した。 その後、ロボトミー手術はアメリカで改良され、第2次大戦後の一時期には、精神分裂病の患者に対して盛んに行われ、全世界に大ブームを巻き起こした。 当時はまだ精神分裂病に対して効果を示す薬が開発されていなかったこともあり、ロボトミーは画期的な治療法として広まっていった。 日本ではこの手術を受けた患者は東京大学精神科医師の磯田雄二郎の推計で全国に約12万人いると見られている。 1949年(昭和24年)には偉大な業績の創始者として、モニスとスイスの神経生理学者のルドルフ・ヘスにノーベル医学・生理学賞が与えられている。 だが、その後、後遺症が多数報告されるようになり、また、抗精神病薬が開発され、人権意識の高まりもあって、1960年(昭和35年)代後半からほとんど行なわれなくなった。 しかし、一部の病院ではその後も手術を行なっていた。 1975年(昭和50年)になって、日本精神神経学会で「精神外科を否定する決議」が可決された。 このロボトミー手術の被害を法に訴えたのはこのうちわずか5人、5件である。 ここにロボトミー訴訟の特殊性があった。 手術を受けた者は死亡し、廃人化して訴えることができなくなったケースも少なくなく、そうした状態になっても「病状の変化」を聞き入れる家族の「医者信仰」が根強く、時効の壁があり、法的救済をよしとしない風土とも無関係ではなかった。 さらに、訴訟費用、弁護士、専門的知識をもつ(ロボトミーに反対する立場の)医師の協力なしには裁判は起こしにくいという事情があった。 ロボトミー手術を受けた患者で最も有名な人物に、後の第35代米国大統領ジョン・F・ケネディの妹・ローズマリー・ケネディがいる。 ローズマリーは生まれつき脳の発達が少し遅れていたが、生活はほぼ普通に送ることができた。 だが、1941年、23歳のときにロボトミー手術を受けた。 手術後はウィスコンシン州の精神病院に入れられ、死亡するまで60年以上そこで暮らした。 もう一人の有名人に女優のフランシス・ファーマーがいる。 才能あふれる美しい女性だったが、精神分裂病と診断され、ワシントン州の病院に入院した。 入院後は二度とカメラの前に立つことはなかった。 フランシスの伝記を元に制作された映画 ではロボトミー手術を受けたことになっているが、この伝記の著者が多くの脚色を加えたという不確かな情報があり、実はロボトミー手術を受けなかったのではないかとも言われている。 この映画作品はゴールデン・グローブ賞6部門、アカデミー賞5部門を受賞した。 桜庭がチングレクトミーを強行されたのは、ベースボールマガジン社発行の『プロレス・ボクシング』誌に、ペンネーム・鬼山豊で、「貧しかった労働少年がついに栄光をつかんだ」というサブタイトルで「イタリアの発電所」と異名をとるレスラーのブルーノ・サンマルチノの原稿が掲載されてから間もなくのことだった。 手術を強行されてから約4ヶ月後、桜庭は希望していた退院が叶えられたが、藤井医師によって、退院許可と引き換えに手術の同意書を書かされた。 すでに手術の症状が現れ、従順になっていた桜庭は同意書を書いた。 桜庭の精神的意欲は減退し、原稿を書ける量は手術前の5分の1に減少した。 その後、桜庭はスポーツジャーナリズムの世界から姿を消した。 運転手や自動車修理工場の見習い工などをしながら各地を転々とした。 1969年(昭和44年)ごろから桜庭はてんかん発作に悩まされるようになった。 名古屋の中央労災病院で診察を受けた結果、チングレクトミーの後遺症である可能性が指摘された。 1976年(昭和51年)2月、桜庭は弟が経営する会社に勤めていたが、英語力をかわれ、フィリピンの支社で働くことになった。 ここには約2年間、滞在していたが、働く気力が湧いてこない。 藤井医師が言っていた「チングレクトミーによって無理がきかなくなる」という言葉を思い出す。 1978年(昭和53年)のある日の夕方、桜庭はマニラ湾の夕日を眺めていたとき、はっきりと覚った。 世界に名高いマニラ湾の夕日を見ているのに、俺の心には何の感動も湧いてこない。 もはや俺は人間ではないのだ。 生きている資格はない。 こんなことになったのは、あの藤井医師のせいだ。 あいつがチングレクトミー手術をしたせいだ。 あいつを殺して俺も死のう。 1979年(昭和54年)9月26日午後5時ごろ、桜庭(当時50歳)は藤井医師(当時53歳)との無理心中という形で決着をつけるべく、遺書を持って、バルビタール(長時間作用型鎮静・睡眠薬)などの薬物を服用したのち、東京都小平市の藤井宅にデパートの配達員を装って押し入った。 ダンボール箱を渡しながら、藤井の妻の母親の深川タダ子(70歳)を押さえつけ、手足に手錠をかけ、ガムテープで目と口をふさいだ。 間もなく帰ってきた藤井の妻の道子(44歳)も取り押え、藤井医師が帰ってくるのを待った。 桜庭の調べでは、午後6時半ごろ帰宅するはずだった。 だが、午後8時になっても帰宅せず、決行を後日に延期するため、2人のノドを切りつけ、胸を刺して殺害し、物盗りに見せかけるため、預金通帳と現金46万円入りの給料袋を奪って逃走した。 午後10時20分ごろ、池袋駅の中央改札口近くで何度も手錠を落とす桜庭を見た警察官から職務質問を受け、銃刀法違反の容疑で現行犯逮捕された。 翌27日午前2時、藤井医師は同僚医師の送別会の2次会を終え、タクシーで帰宅して妻と義母の死体を発見して、知人を通じて警察に通報した。 東京地裁八王子支部での1審で、桜庭は精神鑑定を受けた。 筑波大学教授の小田晋(すすむ) による検察側の鑑定では、「責任能力あり」とし、脳波検査では「異常なし」とした。 精神科医師の逸見武光による鑑定では、責任能力は裁判所の判断事項であり、直接書かない主義としており、責任能力は減弱していたとし、脳に萎縮がある。 両側則脳室前部が拡大。 脳室周囲低吸収域が認められるところから髄液循環障害がある。 手術中、止血用に使用した金属製クリップが脳に残存したままになっている。 脳波検査では「異常あり」とした。 1993年(平成5年)7月7日、東京地裁八王子支部は、小田晋鑑定を採用し、桜庭に対して無期懲役を言い渡した。 死刑を求刑していた検察側が控訴した。 桜庭は弁護士に対し、「私に対する判決は死刑か無罪にしてほしい。 1審での無期懲役は中途半端で、チングレクトミーの問題点をまったく理解していない」と語った。 そして、弁護側も控訴した。 東京高裁での控訴審では、検察側は新たな証拠として愛知教育大教授の渡辺久雄の検事調書と桜庭のカルテを提出した。 しかし、そのカルテには「脳波は異常」と記されていた。 検察側としては逆効果となった。 1995年(平成7年)9月11日、東京高裁でも無期懲役の判決だった。 桜庭は上告した。 1996年(平成8年)11月16日、最高裁で上告棄却で、無期懲役が確定した。 桜庭は67歳になっていた。 2008年(平成20年)2月15日、仙台地裁は宮城刑務所で服役中の桜庭(当時79歳)が自殺を妨げられない権利「自死権」の確認と、刑務所が自殺を認めないことに対する160万円の損害賠償を国に求めた訴訟の判決で桜庭の請求を棄却した。 桜庭は長期の服役による身体の不調を訴え、「生きていても仕方がない」などと主張していたが、近藤幸康裁判官は「自死権が認められる憲法・法律上の根拠はない。 身体状態や刑務所の処遇状況にかかわらず自死権の根拠はなく、請求は前提を欠く」と指摘した。

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