魚河岸 意味。 築地魚河岸の言葉

焼津の魚河岸シャツへの愛が止まらない! 爆発的人気のご当地クールビズを徹底解説

魚河岸 意味

魚河岸シャツの歴史は、昭和初期に焼津市の水産業者の仕事着として始まりました。 そして、60年以上経過した現在は焼津市では、夏になると老若男女が魚河岸シャツで町を闊歩しています。 今では、涼しいタウン着に進化しました。 7年前までは、二十歳前後の可愛いお嬢さんに「魚河岸シャツ」を着て頂けるとは、想像出来ませんでした。 ところが、5年前頃から、多数ご来店頂き、「可愛い柄で、パステル調の可愛い色の魚河岸シャツを作って」とのご要望。 女性に弱い おじさんは、調子に乗ってホイホイ沢山作り過ぎてしまいました。 10年前では、「魚河岸シャツ」は男性しか着ませんでしたが、現在弊店のお客様は女性の方が大半です。 これは時代の流れと思いますが、「魚河岸シャツ」は、焼津市の文化になりつつあります。 ここまで、焼津人に愛されるシャツは稀です。 その理由を私なりに探してみました。 第一の理由は、魚河岸シャツ特徴の「驚くほど涼しいシャツ!」です。 第二の理由は、焼津人の気質(気取りが無く実質的)に合っている。 第三の理由は、販売店側に女性店主が増えて、より女性客に好まれるデザインに「魚河岸シャツ」が進化している。 弊店は、先人より授かった「魚河岸シャツ」という素晴らしいシャツを焼津より発信し、日本全国、そして世界の暑い夏のタウン着へと推進します。 お客様のご希望に沿いながら、魚河岸シャツ組合指導のもと、弊店商品を進化させて行きたい所存です。

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「河岸」という熟語は、「かし」とも「かわぎし」とも読みますが、意味は違いますか?|漢字文化資料館

魚河岸 意味

市場で使われているムズカしいことばを解説するよ。 中央卸売市場と地方卸売市場 中央卸売市場とは 1)開設者が地方公共団体(都道府県、市など)であり、2)開設にあたっては農林水産大臣の認可が必要。 地方卸売市場とは 1)一定規模以上の施設を有し、2)開設者は地方公共団体の他、協同組合、民間会社で、3)知事の許可を受けて開設するものです。 生鮮食料品や花きの取引場所である点では中央卸売市場も地方卸売市場も同じです。 卸売市場法 卸売市場の整備を計画的にすすめたり、生鮮食料品等の取引を正しく行い、その生産や流通がスムースに行われ、国民生活の安定の助けになることを目的とした法律です。 この法律に基づいて中央卸売市場は開設しています。 せり売(せり) 売り主が多くの買い手に競争で値をつけさせ、最高の値を付けた人に売る取引方法です。 市場で行うせりには"固定せり(見本せり)""移動せり(現物せり)""機械せり"などがあります。 固定せり(見本せり) 商品すべてではなく、見本を見せながら行うせり。 一段高い台にセリ人が乗り、品物の品質や大きさ別に順番に売っていきます。 移動せり(現物せり) 商品すべてを見せながら行うせり。 せり人は小さな踏み台を持って、次々と移動してせりを行うのでこの名称がつきました。 全部の品物を見せながら行うので現物せりともいいます。 機械せり 手やりを使わずに機械を使って行うせり。 食肉市場では、せり値表示装置を使ってせりを行います。 花き市場の一部では、せり時計といわれる電光表示板に情報が流れ、品物を見ながら取り引きします。 せりのスタートとともに買い手は手元のボタンを押し、瞬時に値段を決めていきます。 花きは種類や量 がとても多く、このシステムにより取引時間が短縮され、値段の間違いもなく、正確に適正な値段が決められます。 せりの時、大声を出すのはせり人だけ。 買い手は黙って手やりで値段を示すだけです。 せり人は大勢の人の手やりを見定めて、一番高い値段の手やりの人を指名してせり落とします。 相対売(あいたいうり) 売り主と買い手が交渉により値段を決め売買をする方法。 入札(にゅうさつ) 買い手が用紙に単価など必要事項を記入して売り手に渡し、一番高い値段を付けた人が買う事が出来る取引の方法。 生産者 農家や漁師、漁業会社など、自分で野菜を作ったり、魚を捕ったり養殖したりする人たちを生産者といいます。 出荷者 野菜や魚などを市場へ出荷する人のこと。 出荷者には個人の場合と出荷団体の場合があります。 東京や近郊の農家の人たちは畑でとった野菜などをトラックに積んで直接自分で市場に出荷します。 これを個人出荷といいます。 農業協同組合や漁業協同組合など、農家や漁師などの生産者が共同して野菜や魚などを出荷するための組織を出荷団体といいます。 そして、大きさや品質を基準に品物を等級別 にまとめ、市場に出荷します。 農産物ではその多くが農業協同組合から共同して出荷しています。 検疫(けんえき) 外国から船や飛行機で送られてくる輸入食品は、港や空港などで、食品の安全性の検査を受けます。 これを検疫といいます。 魚河岸(うおがし) もとは「魚市場のある川の岸」の意味から魚市場を意味する言葉になりました。 特に築地市場は今でもしばしば"魚河岸"の愛称で呼ばれています。 (ちなみに築地市場では野菜や果 物も扱っています) やっちゃば 青果市場のこと。 せりの声が一般の人には「ヤッチャヤッチャ」と聞こえたので、「やっちゃば」というといわれています。 切り花 茎が切ってあり、主に花びんに生けて楽しむ花。 バラやキクやユリなど。 はち花 鉢に入っている花。 シクラメン、ベコニアなど。 上手に育てると、多年生のものは何年も楽しめます。 マリ値 せり値が同じ値段になること。 代(だい)・代売り(だいうり) 全部という意味。

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魚河岸テラス公式サイト

魚河岸 意味

語源 [ ] 古くより、をつなげる棒や杭のことを「かし」と呼んでいたようである。 もともとは船内にこのような「かし」を乗せておき、停泊時にこの「かし」を水底に突き刺して船を固定していた。 その後、船着場に杭が設置されるようになるとこの杭のことも「かし」と呼ぶようになったと言われている。 ここから転じて船着場、船をつなぐことのできる場所のことを「かし」と呼ぶようになったといわれているが、「河岸」の字が当てられたのは江戸時代以降といわれている。 歴史 [ ] 河川での船による流通は古くより行われていた。 しかし、以前の状況を示す記述は乏しく、実態がどのようなものであったかは定かでない。 ただ、中世の荘園の範囲は水域にも及んでおり、この範囲を決めるとき、船を固定するための「かし」(語源参照のこと)が水底に届く範囲というものが決められていたようである。 もともと、川の両岸の間の渡し場だった場所(渡船場)や、商人らによって設けられた船着場が多かったが、江戸時代に入ると、や諸藩の手により河川の改修工事が盛んに行われた。 この際、年貢米やその他物品を、地方からや大阪などへと運ぶために新たな河岸が、それらの領主のもとで設置された。 特に、幕府の支配の強かった関東では水系の付け替え工事が行われ()、経由で東北地方から江戸までが接続されるようになった。 これに伴い、利根川付近には多くの河岸が設置された。 また、関西でもによるの開削を始めとした水運網の整備が行われ、同様に河岸が置かれた。 江戸幕府はから(2年から3年)にかけて、「河岸吟味」とよばれる調査を行った。 これは幕府の直轄地を越えた調査であったが、このとき86箇所が公認河岸とされた。 この86箇所を旧河岸とよぶ。 その後ふたたび、幕府はだったに命じてから(8年から4年)まで関東の河川を中心に「河岸吟味」を行った。 このときは元禄の調査よりさらに厳密に行われ、河岸の公認と河岸問屋株の設定、運上金の徴収など、河岸の管理強化を行った。 また新規の河岸の設置を禁止したりもした。 に入り、関所や番所が廃止され往来の自由が広がり、による外洋輸送が盛んになった。 さらに河川水運にも蒸気船が導入されると次第に河川による水運の内陸流通も活発化し、河岸の賑わいも明治中頃に最盛期を迎えた。 (明治23年)には利根川とを結ぶが開削している。 しかし、次第に鉄道網が整備されるようになり、また河川改修方法が治水面に重きが置かれるようになると、次第に内陸水運は衰退していった。 それに伴い河岸も従来の機能が失われ、初期には河岸の機能はほぼ失われた。 河岸の立地 [ ] 河岸として栄えた場所としては、河川の合流や分岐点、陸の主要街道との交差点、城下町や寺社の門前町であった場所などがある。 関宿(現在の)のように関所を併せ持った場所もあった。 関宿の関所では江戸に運ばれる船荷の検査も行われた。 河岸の構成 [ ] 河岸には船着場や荷揚げ場(あわせて 河岸場 ( かしば )という場合もある)があり、河岸を仕切る中心として河岸問屋または船問屋があった。 河岸問屋は、船の荷揚げや荷積み、荷物の保管などによる口銭や庭銭とよばれる手数料をとっていた。 また船を所有する船持や、船で働く 水主 ( かこ )、荷物を運ぶ馬を世話をする馬持や馬子なども暮らした。 さらに私財を投じて川にをかけることで、河岸を拡張することもあった。 橋をかければ両岸を使って効率的に積み下ろしができるわけである。 また、往来する人たちのための茶屋や旅籠もあり、遊郭や賭場などを持つ場所もあった。 また江戸時代には河岸を管理するため役人を置いたりしている。 河岸の機能 [ ] また河川の場合、上流と下流で水深が異なるためそれぞれ船の大きさが異なり、経路の途中途中で荷の積みなおしが必要となったが、その場所としても河岸が機能した。 河岸には大量の荷物が集まることで、市場として機能する場所も多く現れた。 築地市場ができる前にあった、日本橋魚河岸はその代表的なものである。 また幕府は米の価格安定のため、江戸周辺の河岸からの米の流入に度々介入を行ったりもしている。 河岸のなかには工業的な発展を見せたところもある。 やのの製造、のの醸造、の酒の醸造はその代表的なものである。 河岸の発達に関する考察 [ ] 河岸の歴史でも分かるように、河川の港としての河岸が発展したのは、江戸時代に入ってからである。 江戸幕府は、江戸の防衛として、大船の製造を禁止し、街道においても荷馬車の禁止や、川への渡橋を禁止したりした。 そのため、陸路での物流の発展は阻害され、必然として河川による物流に頼る必要があった。 文化面での影響 [ ].

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