星 新 一 ボッコ ちゃん。 小説家がガチでオススメする星新一の7つのショートショート

ボッコちゃん

星 新 一 ボッコ ちゃん

にゅる兄さん 61点 「ボッコちゃん」は、星さんの原点だ(by星さん自身)。 それはマンガの神様、手塚さんでいうなら、さしずめ「新宝島」といったところ。 う〜む。 でも「新宝島」をいま読んでも、当時の少年少女たちが受けたであろう超絶インパクトは、残念ながらまったく感じられない。 「ジュラシック・パーク」の生きた恐竜をはじめてみたとき、パンツのなかにオシッコちびったものだが、「ジュラ2」のころには、もう似たようなCGをさんざんみなれたあとで、れいの脳内麻薬物質は、前ほど分泌されなかった。 人間なんて、つくづく耐性のある生き物なんだね〜。 発表当時は、すげ〜インパクトがあったにちがいないだろうけど、後の作品から読んじゃった自分にとっては、そういうワビサビが感じられず、非常に残念に思ったもんだ。 結局「ボッコちゃん」って、するどいオチを楽しむ作品というより、ムードを味わうタイプの作品だったんだね〜。 ときに「バー」ってどんなところ? つぼさん 80点 今回,投稿するに当たって読み直し, そのたびにどんどん得点が上がっていってしまいました。 もう一回読んだら,さらに5点プラスしたくなることでしょう。 初めて読んだときは中学生。 話の構成に(つまりは,オチに)なるほど,とは思いながら, どうして,本のタイトルになってるのかはわかりませんでした。 あと,「ボッコちゃん」という名前も,奇妙に引っかかっていたので… (いや,とか,変とかじゃなく,どうしてボッコちゃん?というのかな) こんなに短いのにドラマがあるんですね。 いまさらですが…。 なぞめいた会話の極意も勉強させてもらいました。 まあ,ボッコちゃん並の美人でなくては通用しないのでしょうが。 最後の2行が特にいいですね。 また長くなってしまいました。 ほしつるさん 95点 次の『おーい でてこーい』と共に,星さんのスタイルを確立した代表作だと思う。 「ボッコちゃん」というネーミングから,オウム返しの受け答えが青年を怒らせてしまう流れ,より恐怖を感じさせる静かなエンディングまで,一体どこからこんな発想が浮かんでくるのか不思議であり,同時に羨ましくもある。 本当は満点あげてもいいんだけど,ちょっといじわるかな? ちなみに,昭36発行の新書版『人造美人』では,タイトルはやはり『人造美人』で,『ボッコちゃん』はサブタイトルとなっている。 巻末に掲載されている執筆年月は1958年1月で,デビュー作『セキストラ』に次いで古い。 と言う事は『ボッコちゃん』はデビュー第2作か? ところで,『ボッコちゃん』の初掲載誌ってどこなんだろう?初期の作品は『宇宙塵』とか『宝石』が多いのかしら?他の作品も気になるなあ。 ホシヅルさん,ご存知ありませんか? ほしつるさん 今週はあまり何もしてないなあ...。 先日,会社の健康診断の胃検診で異常が出て,胃カメラを飲むことになった。 3年連続である。 一昨年は無視したが昨年はポリープを数個切ってもらったら炎症を起こして5日ほど入院するはめに。 さて今年は? 最近ギターを弾いていると,コードを押さえる左手がすぐに痛くなることに気付いた。 このところあんまり弾いていないので,握力が落ちたのかもしれない。 そういえば世の中にギタリストは数多くいるが,あまりたくましい腕をした人を見たことが無い。 彼らの握力はどうなのだろう?うまい人は握力なんていらないのかもしれないな。 どんな世界にも言えることだが,素人は「力の抜き所」がわからずに無駄な力を使っていることが多いそうだ。 「インターネットは金がかかる」とよく言うが,果たしてそうなのだろうか? たとえば私の場合,一日3〜5時間遊んでいて接続料・通話料合わせて一日400円位使っているが,一時間100円で楽しめるものが他にあるかと考えると,決して高くはないと私は思う。 あれ?この話オチが無い....。

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234夜『ボッコちゃん』星新一

星 新 一 ボッコ ちゃん

戦時中ではないのだから過剰な自制は必要ないし、相互監視などもってのほかだけれど、逆にお気楽なユーチューブ・ラリーが続いているのも、いただけない。 仮にそれが「はげまし」の連鎖だとしても、自粛解除のあとはどうするのか。 きっとライブやドラマ撮影や小屋打ちが再開して、ふだんの平時に戻るだけなのだろう。 もっとも自粛中のテレワークはけっこう便利そうだったので、うまくリモート・コミュニケーションをまぜるだけになるのだろう。 思うに、ニューノーマルなんて幻想なのである。 その宿命を背負っているのは、なんといっても病院などの医事現場である。 感染治療も感染対策もたいへんだし、治療や看護にあたる従事者の心労も続く。 経営もしだいに逼迫していくだろう。 なぜこうなっているかといえば、原因はいろいろあるけれど、細菌やウイルスがもたらす疾病が「個人治療」だけではなく「人類治療」にかかわるからである。 人間一人ずつに対処して治療する。 これに対してウイルス対策は「究極要因」を相手にする。 いわば人類が相手なのである。 人類が相手だということは「生きもの」全部が相手だということで、人間も「生きもの」として見なければならないということになる。 これについては長谷川眞理子さんの『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(集英社新書)という好著がある。 ゼツヒツの1冊だ。 進化医学では感染症の発熱を感染熱とはみなさない。 ウイルスなどの病原菌が生育する条件を悪化(劣化)させるために、われわれの体がおこしている現象だとみなす。 免疫系の細胞のほうが病原菌よりも高温性に耐性があることを活用して発熱をもたらしたのである。 だからすぐさま解熱剤を投与したり、体を冷却しすぎたりすることは、かえって感染症を広げてしまうことになりかねない。 ウイルスは血中の鉄分を減少させることも知られているが、これもあえてそういう対策を体のほうが選択したためだった。 「苦労する免疫」仮説を唱えて話題を呼んだ。 そういえば、かつてパラサイト・シングルといった用語をつくり、その後もフリーターや家族社会学について独自の見解を発表していた山田昌弘が、2004年に『希望格差社会』(筑摩書房)で、ネシーの「苦労する免疫」仮説をうまくとりあげていたことを思い出した。 いずれも大いに考えさせられた。 イーワルドはTED(2007)で急性感染症をとりあげ、「われわれは、細菌を飼いならせるのか」というユニークなトークを展開している。 イーワルドの言い分から今回のCOVID19のことを類推すると、武漢での飲料水や糞尿や補水がカギを握っていたということになる。 COVID19パンデミックの渦中の4月25日、HCU(ハイパーコーポレート・ユニバーシティ)第15期目の最終回をハイブリッド・スタイルで開催した。 本楼をキースタジオにして、80人を越えるネット参加者に同時視聴してもらうというスタイルだ。 リアル参加も受け付けたので、三菱の福元くん、リクルートの奥本くん、大津からの中山くんら、5人の塾生が本楼に駆けつけた。 さあ、これだけの参加者とぼくのレクチャーを、どういうふうにAIDAをとるか。 「顔」と「言葉」と「本」を現場と送信画面をスイッチングしながらつなげたのである。 まずは本楼で5台のカメラを動かし、チャット担当に2人(八田・衣笠さん)をあて、記事中継者(上杉くん)が付きっきりで事態のコンテンツ推移の様子をエディティングしつづけるようにした。 スイッチャー(穂積くん)にも立ってもらった。 かくしてハイブリッドHCUは、昼下がり1時の参加チェック開始からざっと7時間に及んだのである。 だからテレワークをしたわけではない。 ぼくは最近のテレワークにはほとんど関心がない。 当時はFAXもなく、オートバイで資料やダミーや原稿を運びあって、制作編集をしつづけたものだった。 最近のテレワークは適用機材の仕様に依存しすぎて、かえって何かを「死なせて」いるか、大事なことを「減殺しすぎて」いるように思う。 プロクセミックスとアフォーダンスがおバカになってしまうのだ。 テレビもネット参加の映像を試みているけれど、いまのところ芸がない。 はたしてうまくいったかどうか。 それは参加者の感想を聞かないとわからないが、ディレクターには小森康仁に当たってもらい、1週間前にラフプランをつくり、前日は映像・音声・照明のリハーサルもした。 こういう時にいつも絶対フォロアーになってくれてきた渡辺文子は自宅でその一部始終をモニターし、コメントしてくれた。 当日の現場のほうは佐々木千佳・安藤昭子・吉村堅樹が舞台まわしを仕切った。 安藤の胸のエンジンがしだいに唸りはじめていたので、この反応を目印に進めようと思った。 書物というもの、表紙がすべてを断固として集約表現しているし、それなりの厚みとボリュームもあるので、見せようによっては、ぼくの「語り」を凌駕する力をもつ。 けれどもやってみると、けっこう忙しく、目配りも届ききれず、自分が多次元リアル・ヴァーチャルの同時送受の浸透力にしだいに負けてくるのがよくわかった。 76歳には過剰だったのかもしれない。 まあ、それはともかく、やってのけたのだ。 すでに昨年10月から演劇ではこまつ座の座長の井上麻矢ちゃんが(井上ひさしのお嬢さん)が、スポーツからは昔なじみのアメフトのスター並河研さんとヘッドコーチの大橋誠さんが、ビリヤードからは大井直幸プロと岡田将輝協会理事が、文楽からは2日にわたって吉田玉男さんのご一門(3役すべて総勢10人余)が、そして茶道から遠州流の小堀宗実家元以下の御一党が(宗家のスペースも提供していただいた)、いったい稽古と本番とのAIDAにあるものは何なのか、いろいろ見せたり、話したり、濃ゆ~く演じてみせてくれたので、これをあらためて振り返るのはたいへん楽しかった。 たとえばベンヤミンやポランニーやエドワード・ホールだ。 ついでに最新刊の『日本文化の核心』(講談社現代新書)からのフリップも入れた。 とくに日本株式会社の多くが平時に有事を入れ込まないようになって、久しく低迷したままなので(いざというとお金とマスクをばらまくだけなので)、こちらについてはかなりキツイ苦言を呈してみた。 このことを前提にしておかない日本なんて、あるいはグローバルスタンダードにのみ追随している日本なんて、かなりの体たらくなのである。 そのことに苦言を呈した。 もっと早々にデュアルスタンダードにとりくんでいなければならなかったのである。 つまり地球生命系のアントロポセンな危機が到来しているということなのだが、そのことがちっとも交わされていない日本をどうするのか、そこを問うた。 ぐったりしたけれど、そのあとの参加者の声はすばらしいものだったので、ちょっとホッとした。 そのうち別のかたちで、「顔」と「言葉」と「本」を「世界と日本」のために、強くつなげてみたいものである。 RNAウイルスの暴風が吹き荒れているのである。 新型コロナウイルスがSARSやMARSや新型インフルエンザの「変異体」であることを、もっと早くに中国は発表すべきだったのだろう。 そのうえで感染症を抑える薬剤開発やワクチンづくりに臨んでみたかった。 せめてフランク・ライアンの『破壊する創造者』(ハヤカワ文庫)、フレデリック・ケックの『流感世界』(水声社)を読んでほしい。 千夜千冊ではカール・ジンマーの『ウイルス・プラネット』を紹介したが、中身はたいしたことがなく、武村政春さんの何冊かを下敷きにしたので(講談社ブルーバックスが多い)、そちらを入手されるのがいいだろう。 「自粛嫌い」のぼくも、さすがに家族からもスタッフからも「自制」を勧告されていて、この2週間の仕事の半分近くがネット・コミュニケーションになってきた(リアル2・5割、ネット参加7・5割のハイブリッド型)。 それはそれ、松岡正剛はマスクが嫌い、歩きタバコ大好き派なので、もはや東京からは排除されてしかるべき宿命の持ち主になりつつあるらしい。 そのうち放逐されるだろう。 学生時代に、このコンベンションに付き合うのは勘弁してもらいたいと思って以来のことだ。 下戸でもある。 だから結婚式や葬儀がひどく苦手で、とっくに親戚づきあいも遠のいたままにある。 たいへん申し訳ない。 レイ・ブラッドベリの家に行ったとき、地下室にミッキーマウスとディズニーグッズが所狭しと飾ってあったので、この天下のSF作家のものも読まなくなったほどだ。 これについては亡きナムジュン・パイクと意見が一致した。 かつての豊島園には少し心が動いたが、明るい改装が続いてからは行っていない。 格闘技はリングスが好きだったけれど、横浜アリーナで前田日明がアレクサンダー・カレリンに強烈なバックドロップを食らって引退して以来、行かなくなった。 ごめんなさい。 子供時代はバスケットの会場と競泳大会の観戦によく行っていた。 それは7割がたは「本」による散策だ(残りはノートの中での散策)。 実は、その脳内散歩ではマスクもするし、消毒もする。 感染を遮断するのではなく、つまらない感染に出会うときに消毒をする。 これがわが「ほん・ほん」の自衛策である。 ぼくとしてはめずらしくかなり明快に日本文化のスタイルと、そのスタイルを読み解くためのジャパン・フィルターを明示した。 パンデミックのど真ん中、本屋さんに行くのも躊らわれる中での刊行だったけれど、なんとか息吹いてくれているようだ。 デヴィッド・ノーブルさんが上手に訳してくれた。 出版文化産業振興財団の発行である。 いろいろ参考になるのではないかと思う。 中井久夫ファンだったぼくの考え方も随所に洩しておいた。 次の千夜千冊エディションは4月半ばに『大アジア』が出る。 これも特異な「変異体」の思想を扱ったもので、竹内好から中島岳志に及ぶアジア主義議論とは少しく別の見方を導入した。 日本人がアジア人であるかどうか、今後も問われていくだろう。 1月~2月はガリレオやヘルマン・ワイルなどの物理や数学の古典にはまっていた。 この、隙間読書の深度が突き刺すようにおもしろくなる理由については、うまく説明できない。 「間食」の誘惑? 「別腹」のせい? 「脇見」のグッドパフォーマンス? それとも「気晴らし演奏」の醍醐味? などと考えてみるのだが、実はよくわからない。 新型コロナウィルス騒ぎでもちきりなのだ。 パンデミック間近かな勢いがじわじわ報道されていて、それなのに対策と現実とがそぐわないと感じている市民が、世界中にいる。 何をどうしていくと、何がどうなるはかわからないけれど、これはどう見ても「ウィルスとは何か」ということなのである。 けれどもいわゆる細菌や病原菌などの「バイキン」とは異なって、正体が説明しにくい。 まさに隙間だけで動く。 ところがウィルスはこれらをもってない。 自分はタンパク質でできているのに、その合成はできない。 生物は細胞があれば、生きるのに必要なエネルギーをつくる製造ラインが自前でもてるのだが、ウィルスにはその代謝力がないのである。 だから他の生物に寄生する。 宿主を選ぶわけだ、宿主の細胞に入って仮のジンセーを生きながらえる。 ところがこれらは自立していない。 他の環境だけで躍如する。 べつだん「悪さ」をするためではなく、さまざまな生物に宿を借りて、鳥インフルエンザ・ウィルスなどとなる。 もっとはっきり予想していえば「借りの情報活動体」なのだ。 鍵と鍵穴のどちらとは言わないが、半分ずつの鍵と鍵穴をつくったところで、つまり一丁「前」のところで「仮の宿」にトランジットする宿命(情報活動)を選んだのだろうと思う。 たとえば一人の肺の中には、平均174種類ほどのウィルスが寝泊まりしているのである。 さまざまな情報イデオロギーや情報スタイルがどのように感染してきたのか、感染しうるのか、そのプロセスを追いかけてきたようにも思うのだ。 まあ、幽閉老人みたいなものだが、何をしていたかといえば、猫と遊び、仕事をしていたわけだ。 千夜千冊エディションを連続的に仕上げていたに近い。 木村久美子の乾坤一擲で準備が進められてきたイシス編集学校20周年を記念して組まれたとびきり特別講座だ。 開講から104名が一斉に本を読み、その感想を綴り始めた。 なかなか壮観だ。 壮観なだけでなく、おもしろい。 やっぱり本をめぐる呟きには格別なものがある。 ツイッターでは及びもつかない。 参加資格は編集学校の受講者にかぎられているのが、実はミソなのである。 ちょっと摘まんでみると、こんなふうだ。 赤坂真理の天皇モンダイへの迫り方も、大竹伸朗のアートの絶景化もいいからね。 イーガンや大澤君のものはどうしても読んでおいてほしいからね。 これらの感想について、冊師たちが交わしている対応が、またまた読ませる。 カトめぐ、よくやっている。 穂村弘『絶叫委員会』、原田マハ『リーチ先生』、上野千鶴子『女ぎらい』、畑中章宏『天災と日本人』、藤田紘一郎『脳はバカ、腸はかしこい』、ボルヘス『詩という仕事について』、松岡正剛『白川静』、モラスキー『占領の記憶・記憶の占領』、柄谷行人『隠喩としての建築』、藤野英人『投資家みたいに生きろ』、バウマン『コミュニティ』、酒井順子『本が多すぎる』、バラード『沈んだ世界』、堀江敏幸『回送電車』、アーサー・ビナード『日々の非常口』、島田ゆか『ハムとケロ』、ダマシオ『意識と自己』、荒俣宏『帝都物語』、白州正子『縁あって』、野地秩嘉『キャンティ物語』、ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡』、國分功一郎『原子力時代における哲学』、ミハル・アイヴァス『黄金時代』、ウェイツキン『習得への情熱』、江國香織『絵本を抱えて部屋のすみへ』、内田樹『身体の言い分』。 このへんも嬉しいね、アイヴァスを読んでくれている。 ぼくが読んでいない本はいくらもあるけれど、イシスな諸君の読み方を読んでいると、伊藤美誠のミマパンチを見たり、中邑真輔のケリが跳んだときの快感もあって、それで充分だよと思える。 もともとはモルフェウスのしからしむ誘眠幻覚との戯れなのだけれど、これを共読(ともよみ)に変じたとたんに、世界化がおこるのだ。 こんな快楽、ほかにはめったにやってこない。 満を持してのエディションというわけではないが(それはいつものことなので)、みなさんが想像するような構成ではない。 現代思想の歴々の編集力がいかに卓抜なものか、これまでのポストモダンな見方をいったん離れて、敷居をまたぐ編集、対角線を斜めに折る編集、エノンセによる編集、テキスト多様性による編集、スタンツェ(あらゆる技法を収納するに足る小部屋もしくは容器)を動かす編集、アナモルフィック・リーディングによる編集を、思う存分つなげたのだ。 かなり気にいっている。 なかでポランニーが「不意の確証」は「ダイナモ・オブジェクティブ・カップリング」(動的対象結合)によっておこる、それがわれわれに「見えない連鎖」を告知しているんだと展望しているところが、ぼくは大好きなのである。 鍵は「準同型」「擬同型」のもちまわりにある。 「世界は本である」「なぜなら世界はメタフォリカル・リーディングでしか読めないからだ」と喝破した有名な著作だ。 最後にキエラン・イーガンの唯一無比の学習論である『想像力を触発する教育』にお出まし願った。 この1冊は天才ヴィゴツキーの再来だった。 あしからず。 編集力のヒントとしては『情報生命』も自画自賛したいけれど、あれはちょっとぶっ飛んでいた。 『編集力』は本気本格をめざしたのだ。 ぜひ手にとっていただきたい。 あしからず。 ところが、気持ちのほうはそういうみなさんとぐだぐたしたいという願望のほうが募っていて、これではまったくもって「やっさもっさ」なのである。 やっぱりCOPD(肺気腫)が進行しているらしい。 それでもタバコをやめないのだから、以上つまりは、万事は自業自得なのであります。 来年、それでもなんだかえらそうなことを言っていたら、どうぞお目こぼしをお願いします。 それではみなさん、今夜もほんほん、明日もほんほん。 最近読んだいくつかを紹介する。 ジョン・ホロウェイの『権力を取らずに世界を変える』(同時代社)は、革命思想の成長と目標をめぐって自己陶冶か外部注入かを議論する。 「する」のか「させる」のか、そこが問題なのである。 同時代社は日共から除名された川上徹がおこした版元で、孤立無援を闘っている。 2年前、『川上徹《終末》日記』が刊行された。 コールサック社をほぼ一人で切り盛りしている鈴木比佐雄にも注目したい。 現代詩・短歌・俳諧の作品集をずうっと刊行しつづけて、なおその勢いがとまらない。 ずいぶんたくさんの未知の詩人を教えてもらった。 注文が多い日々がくることを祈る。 ぼくは鷲津繁男に触発されてビザンチンに惑溺したのだが、その後は涸れていた。 知泉書館は教父哲学やクザーヌスやオッカムを読むには欠かせない。 リアム・ドリューの『わたしは哺乳類です』とジョン・ヒッグスの『人類の意識を変えた20世紀』(インターシフト)などがその一例。 ドリューはわれわれの中にひそむ哺乳類をうまく浮き出させ、ヒッグスは巧みに20世紀の思想と文化を圧縮展望した。 インターシフトは工作舎時代の編集スタッフだった宮野尾充晴がやっている版元で、『プルーストとイカ』などが話題になった。 原研哉と及川仁が表紙デザインをしている。 最近、太田光の「芸人人語」という連載が始まっているのだが、なかなか読ませる。 今月は現代アートへのいちゃもんで、イイところを突いていた。 さらにきわどい芸談に向かってほしい。 佐藤優の連載「混沌とした時代のはじまり」(今月は北村尚と今井尚哉の官邸人事の話)とともに愉しみにしている。 ついでながら大阪大学と京阪電鉄が組んでいる「鉄道芸術祭」が9回目を迎えて、またまたヴァージョンアツプをしているようだ。 「都市の身体」を掲げた。 仕掛け人は木ノ下智恵子さんで、いろいろ工夫し、かなりの努力を払っている。 ぼくも数年前にナビゲーターを依頼されたが、その情熱に煽られた。 いろいろ呆れた。 とくに国語と数学の記述試験の採点にムラができるという議論は、情けない。 人員が揃わないからとか、教員の負担が大きいからとかの問題ではない。 教員が記述型の採点ができないこと自体が由々しいことなのである。 ふだんの大学教員が文脈評価のレベルを維持できていないということだ。 ラグビージャパンはよくやった。 予選リーグは実に愉快だった。 何度も観たが、そのたびにキュンキュンした。 堀江、松島、福岡には泣かされた。 これまでは力不足だった田村もよかった。 リーチ・マイケルのサムライぶりがやっと全国に伝わったのも嬉しかったが、こういうサムライは世界のラグビーチームには、必ず2~3人ずついるものだ。 リーチも田村もルークも姫野もイマイチだった。 CTBの中村のタックルとフルバックの山中の成長を評価したい。 5年ほど前は体が辛そうだった。 平尾とは対談『イメージとマネージ』(集英社文庫)が残せてよかったと、つくづく憶う。 あのときの出版記念パーティには松尾たちも来てくれて、大いに沸いた。 美輪明宏さんが「いい男ねえ」と感心していたのが懐かしい。 まさにミスター・ラグビーだったが、繊細で緻密でもあった。 「スペースをつくるラグビー」に徹した。 トップリーグよりも、冬の花園の高校生たちの奮闘を観てもらうのが、おそらくいいのではないかと思う。 ただし、カメラワークをもっとよくしなければいけない。 孫犁冰さんが渾身の翻訳をしてくれた。 『歴史与現実』という訳になっている。 孫さんは新潟と上海を行き来して、日中の民間外交に貢献している気鋭の研究者で、すばらしいコミュニケーターだ。 イシス編集学校の師範代でもある。 韓国語になった本が7冊になっているので、少々は東アジアと日本のつながりの一助を担ってくれていると信じるが、日中韓をまたぐこういう「言葉のラグビー」や「思想文化のまぜまぜアスリート」は、いまはまだからっきしなのである。 中国文化サロン、日本僑報社、日中翻訳学院、中国研究書店、日韓大衆文化セミナー、日中韓交流フォーラムなどの充実に期待する。 東方書店の「知日」という月刊雑誌ががんばってくれている。 そのロボットはうまくできていた。 バーのマスターがつくった。 美人である。 つんとしているが、それは美人の条件だからしょうがない。 ただアタマはからっぽだった。 それでもオウム返しと語尾変化だけはできるようになっていた。 カウンターの中に入れたら、客が新しい女の子だと思って話しかける。 「きれいな服だね」「きれいな服でしょ」「何が好きなんだい」「何が好きかしら」「お客のなかで、誰が好きかい」「誰が好きかしら」「こんど映画へでも行こう」「映画へでも行きましょうか」。 こんなぐあいだから、客はロボットに惚れた。 青年がやってきてロボットに恋をした。 けれども酒代がやたらにかさんで、父親に怒られた。 「もう来られないんだ」「もう来られないの」「悲しいかい」「悲しいわ」「本当はそうじゃないんだろう」「本当はそうじゃないの」「きみぐらい冷たい人はいないね」「あたしぐらい冷たい人はいないの」「殺してやろうか」「殺してちょうだい」。 青年は薬をグラスに入れた。 そして言った、「飲むかい」「飲むわ」。 こうして客が死に、ロボットが残った。 これが星新一が製造した有名なボッコちゃんである。 星新一の文庫がどのくらいあるかとおもって奥の棚をひっくりかえしたら、5冊ほどあった。 ぼくは海外のSFをずいぶん堪能したが、それは20代のころなので、多くは段ボールに入っているか、奥の棚に積んである。 さいわい5冊ほどが埃りをかぶっていた。 『マイ国家』『妄想銀行』『妖精配給会社』など、なんとも懐かしい。 いずれも新潮文庫で、そのうちの1冊の文庫のカバー袖の星新一の作品ラインアップを見たら、なんと新潮文庫だけで40冊を越えている。 しかもこの1冊ずつの文庫本の中に、それぞれ10篇とか20篇とか入っている。 この『ボッコちゃん』のようにショートショートばかりが入っていると、1冊で35篇を越える。 巷間の噂では1001作品のコントがあるという。 そのほかに加えて、お父さんの星一やおじいさんの小金井良精を書いた重たい本(内容ではなく本の重量)が何冊もある。 これもおもしろかった。 それにしても多い。 きっと何もしないで書いてばかりいたにちがいない。 星新一の作品をコントというか、ショートショートというか、たんにSFというかは、どうでもよろしい。 日本にこのような分野のアイランドをたった一人で造成したのが気高い。 むろんこういうスタイルは海外にも日本にもたくさんあった。 ロード・ダセーニもそうだし、もコントの名人だった。 だが、星新一にはやはり独得のスタイルと哲学がある。 筒井康隆はそれを「ストイシズム」「他人を傷つけることのない自己の完成」とよんだが、それもある。 ちなみに筒井康隆が作家の解説を書いたのは星新一についてのものが初めてであり、これは自信がないが、そのあともそんなに書いていないはずである。 ストイシズムというのは、平気で「寂寞」をストーリーにもちこむところ、ちょっとした言い回しに人間生活の「過剰」を指摘する文言を挿し挟むところ、あるいは筋書がけっして冗漫に拡張しないで「緊縮」していくところ、そういうところがストイックなのだろう。 「自己の完成」というのは、なかなか鋭い批評で、たしかに星の作品には登場人物が筋書きがなんであれ、平然と勝手な自成をとげていくところがある。 そこはにもブラックユーモアにもない哲学だといってよい。 が、星新一にはそれだけではなく、まずはむろんのこと「機知」がある。 その機知が「基地」になっているような、そこから小粒のウイット型HOSI式戦闘機がぴゅんぴゅんと飛び立ってくるような、そんな機知である。 それから当然のことだが、話がうまい。 どううまいかというと、フリがいい。 「振幅」である。 ふつうはこの振幅はふりすぎて命取りになるばあいもあるのだが、そこがなかなか断崖から落ちない。 バランスがいいというより、危なくなるとふいにギアを入れて加速して切り抜ける。 フリ抜ける。 そこは、こんな言い方でいいのかどうかはわからないが、けっこう勝手なのだ。 が、読者はその勝手に酔わされる。 それを何度でもほしくなる。 その麻薬に痺れたい。 それでファンがまたふえる。 ではもうひとつ。 「程度の問題」という作品。 この手の「追いつめられたユーモア」のたぐいも星新一のお得意である。 エヌ氏はついに憧れのスパイになった。 最初の仕事は某国の首都に潜伏することだった。 さっそく地味な服装でアパートを借りたエヌ氏は、部屋の中をしっかり調べ始めた。 どこに盗聴器が仕掛けられているやもしれないからだ。 テーブル、ベッド、電話機はもとより通風機、洗面台、鏡の裏側まで剥がして調べた。 これではスパイには失格かもしれないので、壁や床もコツコツ叩きまわった。 が、どこにも盗聴器は見つからなかった。 そのうちドアをノックする者がある。 ギョッとして「どなた?」と聞くと、アパートの管理人だという。 「この部屋から物音がするので他の部屋の方から文句が出ています」。 入室を断ると怪しまれるので管理人を中に入れたが、あまりの部屋のに驚かれてしまった。 次の日の夕方、エヌ氏は周囲を見るために公園に出掛けた。 ボールが飛んできた。 一瞬、身をひるがえしベンチに体を隠したエヌ氏に、少年が「ボール、とってよ」。 じっと身構えたものの、ボールはどうも爆発しない。 そこでエヌ氏は次にレストランに入った。 注文の品を吟味し、料理がきた。 そこへちょうど犬を連れた貴婦人がきたので肉を一切れ毒味をさせた。 貴婦人はその行儀の悪さに怒りだした。 今度はエヌ氏はバーに入ってさまざまな人物観察をしようと思った。 注意深く酒を検討していたら、怪しげな隣の男が話しかけてくる。 「お仕事は?」「古代美術の研究ですよ」。 うまくウソをついた。 が、だんだん話の辻褄があわなくなってきた。 古代美術は難しすぎる。 タバコを吸ってごまかそうとしたら、男がさっとライターを出した。 慌ててライターを振り落としたところ、「なんですか、失礼な」。 あわや乱闘になりかけた。 そこへ女が入ってきた。 エヌ氏と同じ組織に属する女スパイである。 いろいろ打ち合わせて外に出たら、「うちで紅茶でもどうぞ」と言われた。 紅茶が入ったが、エヌ氏は考えた。 彼女はたしかに同僚だが、ひょっとするとすでに二重スパイになっているかもしれない。 念のため、エヌ氏は紅茶をすりかえた。 飲むとすぐに眠くなってきた。 朝になって彼女が言った、「どうしてあたしの紅茶を飲んじゃったの。 あたし不眠症だから寝る前に薬を入れるのよ」。 翌日、エヌ氏は帰国を命じられた。

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『ボッコちゃん』星新一(新潮文庫)

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そこで出会うのは、懐かしい思い出か、それとも……。 まずは、60年代生まれの作家/書評家・印南敦史(いんなみ あつし)さんが語る2度目の読後感に耳を傾けてみましょう。 第3回でとりあげる作品は、星新一の『ボッコちゃん』(1971年初版発行)。 国内SF界きっての名短編として名高い1958年発表の表題作をはじめ、同氏の選りすぐりの短編をおさめた文庫作品です。 我が家にも著作がたくさんあったので、なんとなく読んでみたら、見事にハマッてしまったのだった。 あっという間にファンになり、その年の冬には年賀状まで出した。 返事が来るだろうとは思ってもいなかったが、出さずにはいられなかったのだ。 小松左京、筒井康隆と並んで「SF御三家」と呼ばれてもいた、SF界の大御所である。 SF人気が高まっていた当時の時代状況を、見事に泳ぎ抜いてみせた人物であるといえよう。 ちなみに星の父親である星一(ほし はじめ)は、星薬科大学の創立者で、星製薬の創業者だ。 そのため彼も父の死後、短期間ながら星製薬の社長を務めた。 そればかりか母方の大伯父は森鴎外であり、端的にいえばお坊ちゃんである。 などといってしまっては身もふたもないが、それはともかく、星作品の魅力はどこから来るのか。 それを考えるとするならば、3つの要因が思い浮かぶ。 お上品ぶっているという意味ではなく、簡潔で読みやすい文章からは、さりげない品のよさがにじみ出ているのである。 もしかしたらそれは育ちのよさ、あるいは生まれ育った環境の影響なのかもしれない。 2つめは、随所に生かされている数学的な感覚だ。 むしろ、こちらの価値が大きいのではないかと思う。 一編が3,000字程度、ページ数でいえば5、6ページ前後のものも多い。 短時間で読むことができるので、そんな親しみやすさも人気の理由だったに違いない。 そして、ここに見逃してはいけないポイントがある。 文字数の少ないショートショートだと聞くと、「なんだ、だったら簡単に書けるじゃないか」と思われるかもしれない。 だが考えてみてほしい。 それは、たかだか5、6ページ程度の文章ですべてを完結させなければならないということなのである。 しかも、それは想いをつらつらと綴った随筆のようなものではなく、ましてや抽象的な純文学でもなく、れっきとした小説だ。 だとすれば、その5、6ページのなかで明確に起承転結を成り立たせなければならない。 ましてやSFは、特に星の書くそれは、娯楽小説的な意味合いが非常に高い。 読み終えたとき、読者が「あー、おもしろかった」と感じることのできるようなクオリティが求められるということだ。 それは決して簡単なことではなく、(推測の域を超えないが)きわめて端的かつ明快な構造のようなものが必要であるように思われる。 膨大な作品数を考えると、そのひとつひとつに緻密なプロットが用意されていたとは考えにくいが、少なくとも原稿用紙に向かう星の頭のなかには、なんらかの数学的な設計図があったのではないだろうか? つまり、数学的なそれを感覚的に言語化していったからこそ、緻密でありながらも軽快なショートショートを生み出すことができたのではないかと感じるのだ。 そういえばあのころ、星がウイスキーの広告に登場したことがあった。 書斎でウイスキーグラスを傾ける星の写真に、文章に関することばが添えられた広告だ。 40年以上前の話なので細かいところまでは憶えていないが、最初の一行が難しく、そこで大いに悩むが、その一行さえ書ければ、あとは大した苦労ではないといった内容であった気がする。 「なるほど、そうかもしれないなぁ」と大いに共感した。 たしかに星作品の決め手は冒頭部分である。 15篇すべてが「ノックの音がした」で始まる『ノックの音が』が最たるものだが、最初の一行目でエンジンをかけ、その勢いで残り数ページを数学的に、かつ感覚的に書き進めていたのではないだろうか? そう考えると、星作品特有の簡潔さ、スピード感にも納得できる気がするのだが、いかがだろう? ロボット・AIと共にある日常を予見 さて、3つめの要因は、なんといっても発想力である。 軽妙な文章力もさることながら、やはり最大の魅力はアイデアの斬新さなのだ。 そのいい例が、本書の表題作であり、星の代表作である「ボッコちゃん」である。 まず際立っているのは、ひとかけらの無駄もないオープニングの描写だ。 そのロボットは、うまくできていた。 女のロボットだった。 人工的なものだから、いくらでも美人につくれた。 あらゆる美人の要素をとり入れたので、完全な美人ができあがった。 もっとも、少しつんとしていた。 だが、つんとしていることは、美人の条件なのだった。 星新一著「ボッコちゃん」(新潮文庫刊『ボッコちゃん』所収)より わずか百数十文字で、読者へ的確な情報を投げかけている。 「そのロボットは、うまくできていた。 女のロボットだった。 」と言われれば、まずいロボットではなく、うまくできていることを嫌でも実感せざるを得ない。 それどころか「いくらでも美人につくれた」となると、「ロボットなんだから、そうだろうなぁ」と思うしかない。 ツッコミどころがないのである。 そのため読者は必然的に、「美人でつんとした、完璧なロボット」をイメージしてしまう。 これは重要なポイントだ。 これがもし同時代の純文学だったとしたら、もっと回りくどい表現で描写するだろう(純文学を否定するわけではなく、しかし、純文学とはそういうものでもある)。 だが、ここに一切の無駄はない。 ボッコちゃんは、バーテンダーとして客に酒を提供するのみならず、簡単な「会話」だってこなしてみせる。 家庭向けにロボットが販売され、人間と「会話」をするAIも現実のものとなったこの現代において、私たちは「ボッコちゃん」で描かれた光景をありありと想像することができる。 しかし忘れてはならないのは、この作品が書かれたのが1958年であるという事実である。 いまから半世紀以上も前に、「ボッコちゃん」は「日常にロボットがいる光景」を、そこから生まれる物語を予言していたのだ。 いや、「ボッコちゃん」に限らず、星作品にはおしなべて先進性があるのである。 ここに収録されている、他の話にしても同じだ。 読む楽しみを減らすようなネタバレはできないが、たとえば「おーい でてこーい」では原発の廃棄物処理問題を取り上げ、「生活維持省」では官僚の体質を皮肉り、「鏡」ではいじめ問題の本質を突き……と、現代社会においても十分に通用するトピックを持ち出しているのである。 そこに驚かされる。 いま読むことで感じられる醍醐味とは なお、これは肯定的な意味なのだが、そんなところも含め、星作品は「漫画」である。 簡単に読めて、難しいことを考えさせず、それでいて、刺すべきところはさりげなく、チクッと刺す。 その洗練されたスタンスこそ、誰にも真似のできない魅力なのだ。 少し前に出張をした際、『ボッコちゃん』の文庫本を持っていった。 なにか持って行こうと思ってなんとなく選んだだけだったのだが、結果的には正解だった。 サラッと読めるので、旅のお供に最適なのだ。 そう感じたからこそ、ひとりでも多くの方に、ふたたび星作品を読んでみていただきたいと思う(もちろん、読んだことがない方も)。 少年時代を思い出すかもしれないし、少年時代には気づかなかった粋な仕掛けに気づくことになるかもしれないからだ。 さて最後に、冒頭の年賀状の話の後日談を書いておきたい。 もちろん、正月の三が日を過ぎても返信はなかった。 なにしろ向こうは売れっ子作家なのだから当然の話だし、別に期待もしていなかった。 ところが、それからしばらくして忘れかけたころ、返事が届いたのだ。 たしか2月下旬のことである。 「賀 星新一」 サインペンで縦書きされていたのは、たったそれだけ。 しかし、まさかの展開に驚き、そして深く感動した。 ウイスキーグラスを手に微笑んでいたあの書斎で、この4文字を書いてくれたのかと考えると、思わず笑みがこぼれてしまった。 うれしさを隠すことなどできなかったのだ。 手数料等およびリスクについて 当社で取扱う商品等へのご投資には、各商品等に所定の手数料等(国内株式取引の場合は約定代金に対して最大1. 43%(税込み)(20万円以下の場合は、2,860円(税込み))の売買手数料、投資信託の場合は銘柄ごとに設定された購入時手数料(換金時手数料)および運用管理費用(信託報酬)等の諸経費、年金保険・終身保険・養老保険・終身医療保険の場合は商品ごとに設定された契約時・運用期間中にご負担いただく費用および一定期間内の解約時の解約控除、等)をご負担いただく場合があります。 また、各商品等には価格の変動等による損失が生じるおそれがあります。 信用取引、先物・オプション取引をご利用いただく場合は、所定の委託保証金または委託証拠金をいただきます。 信用取引、先物・オプション取引には元本を超える損失が生じるおそれがあります。 証券保管振替機構を通じて他の証券会社等へ株式等を移管する場合には、数量に応じて、移管する銘柄ごとに11,000円(税込み)を上限額として移管手数料をいただきます。 有価証券や金銭のお預かりについては、料金をいただきません。 商品ごとに手数料等およびリスクは異なりますので、当該商品等の契約締結前交付書面、上場有価証券等書面、目論見書、等をよくお読みください。

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