ツイステ デュース。 デュースのパーソナルストーリー登場キャラと内容【ネタバレ】

デュースのパーソナルストーリー登場キャラと内容【ネタバレ】

ツイステ デュース

CP要素はありません。 ホラー要素が含まれています。 ぬるい表現ではありますが、ご注意ください。 なんでも許せる方のみお進みください。 [newpage] エースくんが噂話を試してみる話 ナイトレイブンカレッジ、校舎二階の東階段横のトイレに、異世界に繋がる鏡がある。 そんな噂話を聞いたのは、つい二日前の事だったか。 誰に聞いたのか覚えていないが、なんてくだらない噂だろうかと鼻で笑ったのが記憶に新しい。 目の前でナイトレイブンカレッジ七不思議なる話題で盛り上がる寮友たちを眺めながら、オレはふわりと欠伸をこぼした。 「おいエース!聞いてんのかよ!」 「あーはいはい、きーてるってぇ!その鏡の前で『エメキャット』って3回唱えるんだろ」 「そう!そしたら異世界に取り込まれて、一生こっちの世界に帰って来れないんだと!」 ひぇー!なんて大袈裟に怖がるふりをする寮友に、周りの奴らも笑いながら悲鳴をあげる。 ああ、くだらない。 そんな鏡などあるわけないじゃないか。 100歩譲って存在していたとしても、そんな魔法の鏡をトイレに放置したままでいる訳がない。 ちゃんとした魔法具として、どこかに保管されているに決まっている。 もしくは誰かのイタズラ魔法だろう。 やれやれ、と思わずため息を付いたが、それを態々口にするエースではなかった。 そもそもエースはそういった類の話は全く信じていないし、恐怖を感じることもなかった。 魔法が存在して、ましてやゴーストが受け入れられている世界で、そんな話の何が不思議だと言うのだろうか。 どうせ何かの魔法具が紛れ込んでいた、とか、誰かのかけた魔法が解けていなかった、とか真実はどうせそんなところなのだから。 「な、明日試してみようぜ!」 「げぇ〜マジ?」 「俺が帰ってこなかったら、七不思議は本当だったって思ってくれよな…」 ぐ、と拳を握る彼に、適当に声援を送る。 ちらりと時計を見て、そろそろ就寝時間だなと履いていた靴を脱ぎ捨ててごろりと自分のベッドに寝転がった。 視界の端に会話には入らずに椅子に座っているデュースの姿を捉える。 まだ課題が終わっていないのだろうか、とそちらを見遣れば、不思議そうな顔をしたデュースがじっと盛り上がる寮友達を見つめていた。 どうした?と問いかければ、デュースは「いや、」と歯切れが悪い物言いで口を噤む。 不思議そうな顔をしたままで黙られてしまうとどうも気になってしまって、身を起こしながら「なんだよ、気になるじゃん」と食い下がった。 ちらりとこちらに視線を寄越したデュースは、少しの沈黙の後小さく首を振りながらポツリと呟く。 「大したことじゃない」 「それはオレが決める」 「…」 「なーなー、なんなの?渋られると渋られるだけ気になるんですけどー」 胡座をかいた足に肘を乗せて頬杖を付く。 じーっと見つめるオレの視線に観念したのか、投げやりにデュースは口を開いた。 「また同じ話をしているな、と思っただけだ。 」 「あー、七不思議?」 「あぁ、しかもまた鏡の話だろ。 二日前もしてたのに、飽きないなって」 そういえば二日前同じ話を聞いた時、こいつも一緒にいたんだっけ?とぼんやりと思い出す。 どうやらこいつも、オレと一緒でくだらないって思いながら聞いてたらしい。 ま、そーね。 と溜息をつきながら返事を返して、未だ盛り上がりを見せる寮友たちに声をかけた。 「あーもー終わり!就寝時間だし、お前らもさっさと自分の部屋戻れよ」 「げ、マジ?俺今から暗い廊下歩くの怖いんだけど」 「知らねーし!おらおら、出てけ!」 「いやマジ、部屋泊めてよ!ベッド1個余ってんだしさ〜」 頼むよ〜と手を合わせる寮友たちを問答無用で追い出して、さっさと自分のベッドに潜り込む。 もたもたと就寝準備をするデュースに消灯を頼んで、目を閉じた。 そうそう、そんなくだらない話だった。 と昨夜のことを思い返しながら、ざぶざぶと手を洗う。 次の授業は錬金術だ。 さっさとトイレを済ませて実験着に着替えなければならない。 ハンカチなんて持ち歩いていないので、両手の水滴を飛ばすようにひらひらと手を振りながら目の前の鏡を見つめた。 ここはナイトレイブンカレッジ、校舎二階の東階段横のトイレ。 そう、昨夜盛り上がりを見せていた噂の鏡の前である。 別に噂を確かめるためにわざわざやってきた訳では無い。 先程までの授業がたまたまこのトイレに1番近い教室だっただけの話だ。 用を済ませたのだから、このトイレに長く滞在する理由などない。 両手を自然乾燥させながら、普通の鏡にしか見えないそれをじっと見つめた。 「…エメキャット」 ただの好奇心だった。 「エメキャット」 鏡に映る自分の顔は、酷くつまらなさそうだ。 「エメキャット」 ぶん、と手を振る度に、鏡に水滴が飛び散った。 最後の合言葉を告げたあとも、何ら変わりなく目の前の鏡はオレを映し続けている。 くだらね、と小さく呟いて、授業に遅れないようにと小走りでトイレを出た。 [newpage] イワカン ジャケットとベストを脱ぎ捨てて、しわにならない程度に軽く畳んでロッカーへ詰め込む。 白衣を羽織り、厚手のゴム手袋に手を突っ込んだ。 つん、と鼻に来るゴム臭と、よくわからない薬品の臭いに思わず顔を顰める。 今日の錬金術のペアは誰だろうか?楽ができる相手だといいなぁ、なんて考えながらゴーグルを手に取った。 「あぁ、今日のペアはお前か」 「あ、トレイ先輩!」 ラッキー、当たりかも!なんてにんまり笑う。 少々手を抜いても何とかなるだろう。 そんなオレの考えが読めたのか、トレイ先輩は困った顔をして笑った。 「こら、真面目にやれよ」なんて言葉と共にぼすりと頭に彼の緩い手刀が落ちる。 体裁だけの謝罪を口にすれば、トレイ先輩はやれやれと肩を竦めて困ったやつだと溜息をついた。 ふ、とゴーグルをつけようとしているトレイ先輩に違和感を覚えて、少し高い位置の横顔をまじまじと見つめる。 何かがいつもと違う気がする、と少し考えて、覚えた違和感が何だったのか直ぐに思い当たった。 「…トレイ先輩、イメチェン?」 「ん?」 「ほら、顔のクローバー…今日は赤なんですね」 トレイ先輩の左頬に描かれたクローバーは、自分の記憶が正しければ黒色だったはずだ。 しかし、目の前の彼の頬に描かれているのは、真っ赤に彩られたクローバーだった。 ケイト先輩あたりにやられたのだろうか?それとも本当に気分で変えたのだろうか?きょとんとした顔をしているのだろう、そんなオレを見下ろしてトレイ先輩は怪訝そうな表情を浮かべて首を傾げる。 「イメチェンって…俺はいつも通りだぞ?」 「へ?」 「お前こそ、今日は赤のハートなんだな。 いつもは黒いのに」 おかしな奴だな、と笑うトレイ先輩にどういうことかと口を開いた瞬間、空気を裂くような破裂音が教室に響いた。 ぎょっとして教卓へ視線を向ければ、クルーウェル先生が革靴を鳴らして教壇に立ったところであった。 今日の授業内容を説明するクルーウェル先生の言葉が、右から左へ抜けていく。 言及するタイミングを逃してしまった。 赤色のクローバーがいつも通り?オレのハートはいつも黒?…トレイ先輩の分かりにくい冗談なのだろうか?ぼんやりと黒板を見つめて考え込むが、すぐに浮かんだ考えを打ち消した。 なんとなくだが、それは違うと自分の勘が告げている。 左目に描かれたハートマークを指先でなぞれば、うっすらと赤色がゴム手袋に付着した。 赤を擦り取るように指先をすり合わせて、なんとなくほっと息をつく。 取り敢えず出された課題をそれなりにこなそう。 でなければ流石に先生とトレイ先輩、両方からどやされる可能性がある。 胸の内に広がるもやもやを振り払うようにして、手にしたゴーグルを頭に付けた。 [newpage] 違和カン 大食堂で昼食を片手に、どこかに空席はないかとテーブルを回る。 沢山の生徒でごった返す食堂では、空席を見つけるのも一苦労だ。 いつもなら監督生やグリム、デュースたちと共に昼食を摂るのだが、今日は午前中の授業がひとつも被っていなかった。 わざわざ探し回るのも面倒で、先に買っておいたパンを片手に食堂にやってきたのだ。 …決して、食堂に来ればアイツらの誰かを探さずとも見つけられるのでは?なんて思った訳では無い。 勘違いすんなよ。 …いやオレは誰に弁解してるんだ。 「お、ジャックにエペルじゃん!何食ってんの」 見慣れた後ろ姿を見つけて、声をかけながら空いていた隣席に腰掛ける。 大きな毛むくじゃらの耳をピクリを震わせて、ジャックはこちらを見下ろした。 エペルがキョトンとした顔で辺りを見渡して、言葉を選ぶように、おずおずと口を開く。 「いつものみんなは…いないんだ、ね?」 「いつもの?あぁ、別に約束して一緒に食ってるわけじゃねーし?」 恐らくあの3人が周りにいないことを指しているのだろうとアタリをつけて、ひらひらと手を振った。 案外仲の良いエペルとジャックが楽し気に交わす会話を聞きながら、当たり障りなく相槌を打った。 そういえばお前、ラギー先輩が探してたぞ」 「…ん?え?」 ふ、と聞きなれない音が聞こえて思わず顔を上げる。 上手く聞き取れなかった。 今誰がなんて言った?思わずキョロキョロしていると、怪訝そうな顔をしたジャックと目が合った。 え?オレに話しかけた?と声をかけると、どれだけパンを食べるのに集中してるんだ、と呆れたように首を振られる。 え、別にそんな集中してなかったけどな。 寧ろちゃんと二人の会話を聞いていたのだけれど。 「え?いまさっきなんつった?」 「だから、ラギー先輩が…」 「いやいや、そこは聞いてた。 そんな俺の態度に、目の前の二人は顔を見合わせて同じく首を傾げた。 もっかい、とお願いするも、やっぱり聞き取れない。 ジャックだからか?とも思ったが、同じくエペルに頼んでも結果は同じだった。 いくら食堂が人でごった返していて賑やかだったとしても、流石にこの距離の、しかも一部分だけの言葉が聞こえないなんてことはありえないだろう。 気持ち悪いな、と顔を顰めていると体調を気にするように眉を潜めたエペルに、疲れてるんじゃないかと微笑まれた。 「良かったらこれ、食べる?」 「え?いーの?これアップルパイじゃん!」 「そ、よかったら…食べて欲しいかな」 「エペル林檎好きじゃなかったっけ?」 食べちゃっていいわけ?と笑えば、エペルは戸惑ったような表情を浮かべて、ちらりとジャックに視線を移す。 どうかしたのかとつられてジャックを見上げれば、こちらも少し困惑したような顔で俺を見下ろしていた。 え、なに、俺変なこと言った? 「俺、…いや僕、林檎が嫌い…なんだけど…」 「…は?」 セットメニューで着いてきて困っていたと告げるエペルをマジマジと見つめる。 …嘘をついている顔ではない。 筈だ、多分。 俺の記憶違いだろうか?いやそんな馬鹿な。 考え込むようにふと視線を下げると、ジャックの前に置かれた皿が目に入った。 もう食べ終わっただろうその皿の上には、グリルのねぎ塩ソースが少し残っている。 「…ジャックって、ネギ食えたっけ」 「あ?…あぁ、」 お前本当に大丈夫か、と告げるジャックに、勢いよく顔を上げた。 驚いた顔をする2人に、にっこりと歯を見せて笑ってみせる。 記憶違い?本当に?胸に芽吹いた違和感が、ムクムクと存在を主張し始めた。 そんなわけない、と冷静なオレが脳内で叫んでいる。 脳裏を過った噂話を首を振ることで追い払う。 じんわりと汗が滲んで、思わずイライラと舌打ちを零した。 [newpage] 違和感 遅いんだぞ!そうグリムに声をあげられて、わりーわりーなんて言いながら箒を受け取る。 浮かんだ違和感は拭えないままだったが、だからといって授業を受けないわけにもいかない。 それに授業をサボってしまえば、あれだけ馬鹿馬鹿しいと鼻で笑っていた噂話を認めることになるような気がして、何だか癪だった。 全部全部、俺の記憶違いか、全学年を巻き込んだ盛大なドッキリに違いない。 いっそそう思いこんでしまいたかった。 心を落ち着かせるようにゆっくり深呼吸を繰り返す。 青く高い空を見上げるとざわざわとささくれ立っていた気持ちが、少し落ち着いた気がした。 ぼんやりと広場を見渡して、おや、と首を傾げる。 グリムと必ず一緒にいる筈の監督生の姿が見当たらない。 トイレにでもいっているのだろうか?でも更衣室近くのトイレには誰もいなかった気がするのだけれど。 「なーグリム、監督生は?」 「ふなっ?監督生?」 「そー、もう授業始まるぜ?」 グリムは心底不思議そうな顔をしてオレを見つめる。 激しく燃える炎のような色を湛えた瞳にまじまじと見つめられて、思わずなんだよ、と呟いた。 なんだか嫌な予感がする。 俺のこういう予感だけは、外れることは無いのだ。 今日一日、散々向けられた視線。 おい、待てって。 …頼むから。 思わず息を呑む俺を見つめ、呆れた顔をしたグリムはぴくぴくと青い炎を纏った両耳を震わせてため息をつく。 オンボロ寮には監督生なんていないんだぞ!」 「は?」 寝ぼけてんのか?そうニヤリと笑われて、思わず身を固くした。 授業開始の鐘が鳴り、どこからともなく登場したバルガス先生の明朗な声が広場に響く。 慌てたように集合するグリムを呆然と見送って、もう一度「は?」と呟いた。 箒を掴んだ手のひらに、じんわりと汗が滲む。 鼓動が早鐘を打って、誤魔化しきれない違和感にぶるりと膝が震えた。 え?なに?…そういうドッキリ?つまんないんだけど。 いつもの俺ならそう言っていただろうけれど、今はそんなことを口にできる余裕はなくて、引くつく喉がかひゅりと音を立てた。 上手く息が吸えなくて、呻くように吐息が漏れる。 足元がぐらつくような感覚に、思わず身体がよろめいた。 バクバクと暴れる心臓を押さえつけて、きょろりと広場に視線を巡らせたが、監督生の姿はやはりどこにもない。 グリムは1人で箒を持って列に並んでいて、それをみんなは当然のように受け入れている。 バルガス先生の「全員揃っているな」なんて嬉しそうな声がいやでも耳に届いた。 監督生がいないことに、なんの疑問も抱いていない、声だった。 そんな馬鹿なこと、あるわけない。 あいつの声も、言葉も、しっかりと思い出せる。 こんなにも詳細に思い出される友人が、記憶違いで産まれるなんてことがあるはずないじゃないか。 …あって、たまるか。 ここにいては、いけない。 再び大きく心臓がはねたのをきっかけに、俺は箒を投げ出して地を蹴った。 後ろから聞き取れない言葉が追いかけてくる。 掛けられる声なんてどうでもよくて、振り払うようにスピードを上げた。 逃げろ、ただひとつその言葉だけが思考を支配して、追い立てられるように広場を駆け抜ける。 落ち着ける場所に行きたかった。 誰もいない場所に、冷静になれる場所に。 頭上では、バルガス先生の号令に合わせてアズール先輩が優雅に箒で空を飛んでいた。 [newpage] 逃走 走って、走って、走り続けて辿り着いたのは、ハーツラビュル寮の中の薔薇の迷路だった。 そこは迷路というだけあって非常に入り組んだ構造をしているため、意図的に合流しようとしない限り人と出会うことはそうそうない。 嫌な音を立てる心臓を抑えながら、上がった息を整える。 ふうふうと息をついて、芝生の上にしゃがみ込んだ。 走ったことで体温が上がっているはずなのに、背筋はぞわぞわと粟立って身体が震える。 落ち着け、大丈夫、落ち着かなければ、解決できることも解決できないだろ?大丈夫、大丈夫。 落ち着け。 大丈夫だ。 必死に自分に言い聞かせて、肺の中にある空気をなるべく吐き出すとパチンと両頬を叩いた。 一度情報を整理しよう。 いくらか落ち着いた脳で、誤魔化しきれなくなった違和感を振り返る。 自分の認識とはズレた行動を起こす友人や先輩たち。 赤いクローバーのトレイ先輩、ネギの食べれるジャック、リンゴ嫌いのエペル、赤い目をしたグリム。 周りの認識とはズレている俺。 そして本来の自分が認識している世界との明確な違いは、『監督生』がこの世界には存在しないということ。 いるはずの人物がいない。 それだけで、ここが元の世界とは違うということを嫌でも理解させられてしまった。 そして聞き取れない一部の言葉。 食堂でのジャックとエペル。 そして先程のグリムも、聞き取れない言語を使っていた。 …おそらく、というか当然、聞き取れていないのは俺だけだろう。 わかっているのは、その言葉は俺に掛けられる言葉であるということ。 例えば、俺に話しかけるとき、そして俺を呼び止めるときだとか。 俺は今、そいつに成り代わっている状況という事か?いや、でもそうなったら、こちらの世界の俺はいったいどこにいる?俺の代わりにあちらの世界に行っているということも考えられるが、そうなると『呪文を唱えると異世界の住人と取り換えっこされる』…とか、そんな噂話になるんじゃないだろうか? アーもう!!と叫んで、噴き出した汗でしっとりと湿った髪を掻きむしった。 とにかくここは、認めたくないが異世界なのだろう。 何とか解決策を見つけ出さなければ、本当に自分は一生、この世界で暮らすことになる。 あちらの世界で行方不明になったまま。 落ち着いたはずの鼓動が、再び嫌な動きを始めた。 ざわざわと不安が心に広がって、固く目を閉じる。 あぁクソ、解決策まで噂で流しとけよ、と顔も知らない噂の発端を恨んだ。 もういっそ、再度あのトイレでまじないを試してみようか。 これ以上悪いことにはならないと思いたい。 呪文を唱えないにせよ、原因を見に行くのは一つの手かもしれない。 頑張れ、俺。 大丈夫だ、俺。 俺がしっかりしなくてどうするんだ。 この世界で、味方なのは自分だけ。 そうだろ、…そう、だろう…—— 「…っ」 ゴクリ、と自分の唾を飲み込む音が頭に響く。 震える左手で顔を覆って、ゆっくりとうなだれた。 ——…言葉が、出てこない。 己を鼓舞しようと繰り返していた言葉に続けようとした、普通ならば忘れるはずのない、『それ』が出てこない。 「…『俺』って、誰だ?」 俺は、オレ、俺が、オレは、俺…俺、で?俺の、違う、オレの名前は…。 ぐるぐると濁流のように襲う思考に、止まった震えがぶり返して、背筋に冷や汗が伝う。 だめだ、思い出せ。 思い出せるはずだ。 じっとりと滲む汗を手で拭って、ぎくりと身体が強張った。 拭った汗が滲む左手に、うっすらと黒ずんだ汚れが付着している。 ゆっくりと震える指先で確かめるように——左目のハートをなぞった。 ぬるりと溶け出したインクの手触りがして、恐る恐る指先を見る。 嘘だろ、そんな、まさか。 黒い塗料が、血の気の引いた指先にべったりと付着していた。 思わず乾いた笑いが口からもろび出る。 「ふざけんな」 固く固く左手を握りしめて、唸るように吐き捨てた。 オレがオレじゃなくなるなんてこと、簡単に認められるわけがないだろう。 自分が消える恐怖と同時に、湧き上がる憤りに目の前が赤く染まっていく。 どうする、どうすれば自分の名前を思い出すことができるのか。 なんとかこの世界に一矢報いてやらなければと怒りに任せて、整備された芝生に爪を立てた。 「オレの好きなものは、チェリーパイ」 思い出せ。 「オレの得意魔法は、風」 思い出せ。 「オレの特技は、手品」 思い出せ。 「オレの、名前は」 思い、出せ。 「っオレの、名前は——」 「エース」 聴きなれた、やや掠れ気味の力強いその声が、オレの名前を呼んだ。 [newpage] 安心 ハッと弾かれた様に顔を上げる。 ピンクのハーフパンツに、ピンクのヒョウ柄のパーカーを羽織ったデュースが、冷ややかな瞳でオレを見下ろしていた。 いつの間にやってきていたのだろうか。 深い海のような青い髪を靡かせて、呆れたように深く深く溜息をついた。 「お前、今日はフラミンゴ当番の日だろう!お前がサボると僕まで寮長に怒られるんだからな」 「、は」 「サボるのは好きにすればいいが、僕までとばっちりを食うのはごめんだぞ」 仁王立ちで腕を組んだデュースを見上げて、思わず詰めていた息を吐く。 いつもなら腹がよじれるほど笑い転げるへんてこなファッションの彼に、泣きたくなるくらいの安心感を覚えている自分に気が付いて、はぁぁと嘆きながら崩れ落ちた。 突然のオレの奇行にびくりと後ずさる彼の足音が聞こえる。 戸惑ったようにしゃがみ込んだ彼は、オレの顔を覗き込みながら口を開いた。 「エース?どうかしたのか」 「…もっかい」 「は?」 「…もっかい、オレの名前呼んで」 心底引いているような、頭のおかしな人を見るかのような顔をしたデュースに咄嗟に拳を握ったが、ここで喧嘩を売っても仕方がないとぐっと抑え込む。 とにかく今は、自分の名前を呼んでほしかった。 あちらの世界にいる間、一言も呼ばれなかった、思い出せなくなってしまった、大切なその名前を。 ふざけているわけではない、と判断したのだろう、怪訝そうに眉をひそめたままではあったが静かにデュースは口を開いた。 「エース。 エース・トラッポラだろ」 「…うん」 「…なんだ、自分の名前も忘れたのかお前」 じんわりと、自分の名前が身体に染み込んでいくような感覚がして、ぎゅっと目を閉じた。 ——エース・トラッポラ。 それがオレの名前。 二度と亡くしてなるものか、と舌の上で何度も何度も繰り返し名前を転がしてなじませる。 芝生の上に倒れこんだままのオレを見ながらふん、と鼻で笑うデュースに、そうだよ!!と叫んでやりたくなった。 オレがつい先程まで体験していたことを懇切丁寧に感情と抑揚を込めて語ってやろうか、とも思ったが、どうせこいつのおつむでは何一つ理解できないだろう。 頭がおかしくなったのか、と同情するような目をするデュースが想像に容易くて、やっぱり殴ってやろうかと拳を握った。 漸くゆっくりと体を起こしたオレを見て、デュースはさっさと立ち上がると薔薇の迷路の出口へと足を向ける。 「行くぞ」というデュースの言葉に、「へいへい」なんておざなりな返事をしながら、ゆったりと彼の後を追った。 「お前、今日一日どこに行っていたんだ?授業にも出てなかったみたいだし…監督生も心配してたぞ、いなくなったって」 「…監督生が」 「あぁ、でもさっき『エースを見かけてないか』って聞いたら、首を傾げられたんだ。 グリムも監督生も『誰?』って。 …お前、二人と喧嘩でもしたのか?」 やれやれと溜息をつきながら告げられた言葉に、思わず目を瞬かせた。 そうか、ちゃんと、ちゃんとグリムと監督生がセットで存在してるのか。 そう、それが正しい。 正しいオレの世界だ。 「喧嘩なんてしてねーし。 」 「どうだか」 つーか会いたくても今日一日会えなかったっつーの。 オレの苦労も知らないで、と思わず唇を尖らせて、視線を落とした。 それにしても、自分が考えていた仮説があながち間違っていなかった事実にぶるりと身を震わせる。 あの世界に塗り替えられかけていたオレは、デュースが告げた監督生やグリムの様子を聞くに、こちらの世界ではどんどんと人の記憶から消えていっていたのだろう。 そして完全にこっちでのオレを思い出せなくなったとき、オレは俺に塗り替えられて、そのまま異世界で過ごすことになる。 こちらの世界ではオレにまつわる記憶がすべて消えるため行方不明ではなく、最初からいなくなったものとされるから事件にもなることはない。 もしも、もしもこいつがオレをきれいさっぱり忘れて探しに来なければ、オレはあのまま異世界に取り込まれていたのだろうか。 オレではない俺として、何の疑問も持たすにあのズレた世界で、日々を過ごしていたのだろうか。 言いようのない不安がこみあげて、ゾッと背筋が冷えた。 ふと左手に付着した黒色が思考を過る。 思わず足を止めれば、すぐに気が付いたデュースがこちらを振り返った。 何やってるんだ、と言いたげな視線を無視して、じっと自分の靴を見下ろす。 何度か深呼吸をした後、気合を入れるように乾いた唇をゆっくりと舐めて、そっと言葉を吐き出した。 「なぁ、トレイ先輩の顔のクローバーって、黒だよな」 「は?!…そう、だったはずだが…」 「じゃあさ、エペルの好物ってリンゴだよな」 「…確か、そうだったと思う」 「じゃあ」 「…」 「じゃあオレの左目のハートって、赤色だよな」 そろり、と靴から視線を上げれば、凪いだ瞳と視線が合って身を固くした。 じいっとこちらを見つめ続けるデュースから視線が逸らせない。 なに、なんなの。 思わず引いてしまいそうになるけれど、それだとなんだか負けてしまう気がしてぐっと耐えて睨み返した。 つい、とオレの後ろに視線を逃がしたデュースに、何を見ているのかと振り返ろうとした瞬間、強い力で胸倉を掴まれる。 そのままずんずんと歩き始めるもんだから、オレはただ足をもつれさせて引きずられることしかできない。 ふざけんなよ、と声を荒げようとして、ぐんっと力任せに放り出された。 「ッっぶねぇ!!!」 「そんなに確認したいなら自分でしろ」 眼前に迫った石畳に、咄嗟に受け身を取って勢いを殺すためにごろんと前転する。 噴水の淵に手を付いて、ようやく身体が止まった。 勢いを殺していなかったら、あの勢いのまま噴水に頭から突っ込むところだった。 止まれたことにほっと息をついて、眼前に迫った水面に目を見張った。 揺らめく水面に映る、驚いた顔をした自分。 その左目に描かれたハートマークは。 「…あかだ」 「…お前、本当に頭でもぶつけたのか?」 「…うるっせえ!このバカデュース!!」 それにしてもやり方が雑すぎるだろう、と今度は抑えることなくデュースに飛び掛かった。 結局殴り合いの喧嘩に発展し、盛大にフラミンゴ当番をすっぽかしたオレたちは、そろって寮長からのお叱りを受けることになる。 ずっしりとした重みの首輪に、あぁ、帰ってきたと安心して目頭が熱くなった…なんて、そんなことは絶対ないんだけど。 [newpage] 今日じゃなければ来なかった 「アァ~…なんか疲れた…」 「お前のせいで結局僕まで怒られたじゃないか…!」 大きく息を吐きながら、ぼふりと自分のベッドにダイブする。 今日一日だけで、何度心臓が変な挙動をしたのだろうか。 寿命が縮んだ気がする、どうしてくれんだよ、マジムカつく。 デュースが喚く言葉を無視して、ふかふかの枕に顔を埋めていると聞いてるのか、と後頭部にばふりと柔らかな衝撃を受けた。 別に痛みはなかったが、大袈裟に「いってーな!暴力反対なんですけど!」と苛立ったように叫べば、ふん、とデュースはそんなオレを見透かすように鼻で笑った。 満足したように自分のベッドに乗り上げる彼から視線を逸らして、ごろりと寝返りを打つと天井を見上げた。 それにしても、無事元の世界に戻ってきたのは良いが、そもそもデュースはどんな手を使ってやって来たのだろうか?寮長に叱られた後、さりげなく鏡の噂を試したのか聞いてみたが、「何でそんなことしないといけないんだ」と顔を顰められたため、デュースがオレと同様噂を試したという説は消えた。 じゃあどうやって?実は霊感がバリバリある系のキャラなのだろうか。 監督生が前に話していたような…寺生まれの…なんだっけ? 「なーデュース、お前って霊感ある人?」 「…レイカン…?」 「あ、ごめんやっぱなんでもねぇわ」 デュースの頭上にハテナが乱立する幻覚が見えて、すぐさま会話を切り上げる。 これは違うわ。 未だにハテナを飛ばすデュースは、「…冷感…?」と考え込んでいる。 だからもういいってば。 漢字も違ぇし。 ごろりと体勢を横にして、うんうん唸るデュースを見つめた。 薔薇の迷路での凪いだ瞳を思い出して、あの時とはまるで別人だなと鼻で笑う。 それにしてもなんでこいつだけ、オレのことを覚えていたんだろう。 目の前の彼と同じだけ、一緒にこの学園での時間を共有している監督生やグリムでさえも、きれいさっぱり忘れていたようだったのに。 覚えていられる人間には、なにか一定の条件でもあるのだろうか。 異世界に迷い込んだ人間を忘れない条件ってなんだ? ぐるぐると考えを巡らしてみても答えなんて出るはずもなく、やめやめと思考を放棄した。 戻ってこれたんだからもういいや。 こんなことを考えるなら、オレにこの話を教えてきた友人を懲らしめる方法を考えた方が楽しいだろう。 「なぁ、オレらに鏡の噂話を最初に話してきたのって誰だっけ?」 「鏡の噂?…あー……?確か…、エルダーじゃなかったか」 「エルダー?…誰それ、うちの寮?」 「は?お前…っ!よく話すルームメイトの名前も覚えてないのか?!」 「…ルームメイト?」 聞きなれない名前を聞き返せば、眉間にシワを寄せたデュースが驚いたように言葉を紡ぐ。 思わずオウム返しにして、身を起こした。 ルームメイト?この部屋の?ばくん、とオレの心臓が大きく跳ねる。 今日は大忙しだな、なんて軽口を叩く気にもなれず、思わず胸元のシャツに爪を立てた。 「…オレらって、四人部屋だけど3人利用、だろ?」 「何言ってるんだ。 うちの寮の1年は今回、人数が綺麗に4で割れるから、全室4人利用だって初日に説明を受けただろ。 …お前、今日は本当にどうしたんだ?」 呆れ顔から一転して、デュースは心配げな表情を浮かべた。 こいつがオレにこんな顔をするなんて、明日槍でも降るんじゃないだろうか?…いや、こいつがそんな顔をするほどに、今のオレは酷い顔をしているのだろうなと、どこか冷静な部分でぼんやりと考える。 じっとりとした冷や汗が背筋を伝って、顔から血の気が引いていくのが分かった。 はは、と乾いた笑いが口から零れる。 そんなの、知らない。 噂の発端であり、オレともよく話す、エルダーというルームメイトの男なんて、そんなやつの記憶はオレにはない。 …ない、はずだ。 「…そいつってさ、昨日居た?」 「…いや…?そういえば、2日前から部屋に戻ってきてないな。 」 「2日前?…その前の日に、オレらと話してたんだよな?」 「あぁ、寝る前に少しな。 …お前、ほんとに覚えてないのか?噂話を面白がって、エルダーに試してみろって焚き付けてたのはお前だぞ」 「…」 飛び出してしまうんじゃないかと思うほどに暴れる心臓を押さえつけて、ごくりと息を飲んだ。 これ以上はやめた方がいい。 分かっているのに、言葉は口から零れ落ちる。 「…探したり、しなかったわけ?」 「なんで僕が…幼児相手じゃあるまいし。 まぁ、自分の部屋以外で寝泊まりしてはいけない、なんて校則もないし、どこかダチの部屋で泊まっているんじゃないのか?」 「学校で見かけた?」 「…………そういえば見てないけど……、授業が被ってないだけだろ?」 なんでそんなこと聞くんだ?と首を傾げるデュースから思わず視線を逸らす。 疑念は既に確信に変わっていた。 噂の発端で、オレのルームメイトでもあったはずのエルダーは、オレの煽りに焚き付けられて、2日前にあの鏡の前で呪文を唱えてしまったのだ。 そして、逃げることも出来ずに塗り替えられ、あの世界に取り込まれてしまったのだろう。 …エルダーのことを覚えている人間が、探しに来ることもなく。 いやに喉が乾いて、何度も口内の唾を飲み込む。 カラカラに乾いた唇が、暴れる心臓を抑える手が、意思に反してぶるぶると小刻みに戦慄いた。 「…あのさ」 「次はなんだ」 「…今日がフラミンゴ当番の日じゃなかったらさ、お前オレのこと、探してた?」 オレの言葉にきょとりと目を瞬かせたデュースは、眉尻を下げて三日月のように目を細めて笑った。 「僕はお前のママじゃないぞ?…用もないのになんでわざわざ探さなきゃいけないんだ」.

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#ツイステ #デュース・スペード 今日じゃなければ来なかった

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Contents• キャラクターの出身地 出身地 キャラ 薔薇の王国 リドル・トレイ・デュース・エース 輝石の国 ヴィル・ジャック・ケイト 夕焼けの草原 レオナ・ラギー・ルーク 珊瑚の海 アズール・ジェイド・フロイド 熱砂の国 カリム・ジャミル 嘆きの島 イデア・オルト 茨の谷 マレウス・セベク 豊作村 エペル 薔薇の王国 準備中。 輝石の国 ヴィル、ジャック、ケイトの出身地。 輝石の国は国土が広く、人口も多い。 そのため、地域ごとに全く異なる文化が育っている(出典:ジャックSR式典服PS)。 夕焼けの草原 夕焼けの草原全体がそうなのかは不明だが、レオナの地元は女性をすごく敬う文化がある。 レディファーストな社会(出典:ケイトR制服PS)。 夕焼けの草原の女性は腕っぷしも強めである。 王宮の近衛兵も半分以上が女性(出典:レオナSR式典服)。 沈みゆく夕日がとても美しい草原。 自然が豊かで、あらゆる動物たちが自由に生命を謳歌している(出典:ルークR運動着)。 珊瑚の海 オクタヴィネル寮3人(エレメンタリースクールからの幼馴染)の出身地。 ちなみに人魚は人間ほど数が多くはないのでクラスもずっと一緒のこと(出典:ジェイドSSR寮服PS)。 また、ジェイドとフロイドは珊瑚の海の中でも北の深海育ちであり、冷凍庫くらいの寒さでも平気のようです(出典:ジェイドSRビーンズ・カモのPS)。 珊瑚の海については、初めて来た人は 「想像より寒くて暗いと思うのではないでしょうか」とジェイド。 海底にはお菓子のような甘いものはほとんどなく、普段口に出来るのはナマモノ中心だとか(出典:ジェイドR制服PS) 熱砂の国 スカラビア寮のカリムとジャミルの出身地。 熱砂の国ではお茶をよく飲むようで、食事にも休憩時にもお茶は欠かせないそう。 お客様をもてなすときには特別なお茶を淹れるが、甘ければ甘いほど贅沢なお茶と見なされ、ありったけのお砂糖を入れる(出典:ジェイドR制服) 熱砂の国の料理や宴はスパイスをたっぷり使った料理が出ることが多い。 カレー、バミヤ、サルタなどの煮込み料理が主流(出典:カリムSSR寮服)。 熱砂の国では、水色・紫色がいつの時代でも人気の色(出典:カリムSR式典服)。 熱砂の国で作られた織物は貴重なもの(出典:ジャミルSSR寮服)。 アジーム家ご用達の職人が織った品は店頭には並ぶことすらない。 布1巻で家族4人が一ヶ月暮らせるほどの価値。 嘆きの島 準備中。 茨の谷 マレウスらの故郷。 茨の谷では完全なる機械仕掛けのものに触れる機会は少ない。 ほとんど魔導式(出典:マレウスSR実験着)。 動物の形をしたガーゴイルがたくさんある(出典:マレウスR制服)。 豊作村 準備中。

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ツイステ デュース

CP要素はありません。 ホラー要素が含まれています。 ぬるい表現ではありますが、ご注意ください。 なんでも許せる方のみお進みください。 [newpage] エースくんが噂話を試してみる話 ナイトレイブンカレッジ、校舎二階の東階段横のトイレに、異世界に繋がる鏡がある。 そんな噂話を聞いたのは、つい二日前の事だったか。 誰に聞いたのか覚えていないが、なんてくだらない噂だろうかと鼻で笑ったのが記憶に新しい。 目の前でナイトレイブンカレッジ七不思議なる話題で盛り上がる寮友たちを眺めながら、オレはふわりと欠伸をこぼした。 「おいエース!聞いてんのかよ!」 「あーはいはい、きーてるってぇ!その鏡の前で『エメキャット』って3回唱えるんだろ」 「そう!そしたら異世界に取り込まれて、一生こっちの世界に帰って来れないんだと!」 ひぇー!なんて大袈裟に怖がるふりをする寮友に、周りの奴らも笑いながら悲鳴をあげる。 ああ、くだらない。 そんな鏡などあるわけないじゃないか。 100歩譲って存在していたとしても、そんな魔法の鏡をトイレに放置したままでいる訳がない。 ちゃんとした魔法具として、どこかに保管されているに決まっている。 もしくは誰かのイタズラ魔法だろう。 やれやれ、と思わずため息を付いたが、それを態々口にするエースではなかった。 そもそもエースはそういった類の話は全く信じていないし、恐怖を感じることもなかった。 魔法が存在して、ましてやゴーストが受け入れられている世界で、そんな話の何が不思議だと言うのだろうか。 どうせ何かの魔法具が紛れ込んでいた、とか、誰かのかけた魔法が解けていなかった、とか真実はどうせそんなところなのだから。 「な、明日試してみようぜ!」 「げぇ〜マジ?」 「俺が帰ってこなかったら、七不思議は本当だったって思ってくれよな…」 ぐ、と拳を握る彼に、適当に声援を送る。 ちらりと時計を見て、そろそろ就寝時間だなと履いていた靴を脱ぎ捨ててごろりと自分のベッドに寝転がった。 視界の端に会話には入らずに椅子に座っているデュースの姿を捉える。 まだ課題が終わっていないのだろうか、とそちらを見遣れば、不思議そうな顔をしたデュースがじっと盛り上がる寮友達を見つめていた。 どうした?と問いかければ、デュースは「いや、」と歯切れが悪い物言いで口を噤む。 不思議そうな顔をしたままで黙られてしまうとどうも気になってしまって、身を起こしながら「なんだよ、気になるじゃん」と食い下がった。 ちらりとこちらに視線を寄越したデュースは、少しの沈黙の後小さく首を振りながらポツリと呟く。 「大したことじゃない」 「それはオレが決める」 「…」 「なーなー、なんなの?渋られると渋られるだけ気になるんですけどー」 胡座をかいた足に肘を乗せて頬杖を付く。 じーっと見つめるオレの視線に観念したのか、投げやりにデュースは口を開いた。 「また同じ話をしているな、と思っただけだ。 」 「あー、七不思議?」 「あぁ、しかもまた鏡の話だろ。 二日前もしてたのに、飽きないなって」 そういえば二日前同じ話を聞いた時、こいつも一緒にいたんだっけ?とぼんやりと思い出す。 どうやらこいつも、オレと一緒でくだらないって思いながら聞いてたらしい。 ま、そーね。 と溜息をつきながら返事を返して、未だ盛り上がりを見せる寮友たちに声をかけた。 「あーもー終わり!就寝時間だし、お前らもさっさと自分の部屋戻れよ」 「げ、マジ?俺今から暗い廊下歩くの怖いんだけど」 「知らねーし!おらおら、出てけ!」 「いやマジ、部屋泊めてよ!ベッド1個余ってんだしさ〜」 頼むよ〜と手を合わせる寮友たちを問答無用で追い出して、さっさと自分のベッドに潜り込む。 もたもたと就寝準備をするデュースに消灯を頼んで、目を閉じた。 そうそう、そんなくだらない話だった。 と昨夜のことを思い返しながら、ざぶざぶと手を洗う。 次の授業は錬金術だ。 さっさとトイレを済ませて実験着に着替えなければならない。 ハンカチなんて持ち歩いていないので、両手の水滴を飛ばすようにひらひらと手を振りながら目の前の鏡を見つめた。 ここはナイトレイブンカレッジ、校舎二階の東階段横のトイレ。 そう、昨夜盛り上がりを見せていた噂の鏡の前である。 別に噂を確かめるためにわざわざやってきた訳では無い。 先程までの授業がたまたまこのトイレに1番近い教室だっただけの話だ。 用を済ませたのだから、このトイレに長く滞在する理由などない。 両手を自然乾燥させながら、普通の鏡にしか見えないそれをじっと見つめた。 「…エメキャット」 ただの好奇心だった。 「エメキャット」 鏡に映る自分の顔は、酷くつまらなさそうだ。 「エメキャット」 ぶん、と手を振る度に、鏡に水滴が飛び散った。 最後の合言葉を告げたあとも、何ら変わりなく目の前の鏡はオレを映し続けている。 くだらね、と小さく呟いて、授業に遅れないようにと小走りでトイレを出た。 [newpage] イワカン ジャケットとベストを脱ぎ捨てて、しわにならない程度に軽く畳んでロッカーへ詰め込む。 白衣を羽織り、厚手のゴム手袋に手を突っ込んだ。 つん、と鼻に来るゴム臭と、よくわからない薬品の臭いに思わず顔を顰める。 今日の錬金術のペアは誰だろうか?楽ができる相手だといいなぁ、なんて考えながらゴーグルを手に取った。 「あぁ、今日のペアはお前か」 「あ、トレイ先輩!」 ラッキー、当たりかも!なんてにんまり笑う。 少々手を抜いても何とかなるだろう。 そんなオレの考えが読めたのか、トレイ先輩は困った顔をして笑った。 「こら、真面目にやれよ」なんて言葉と共にぼすりと頭に彼の緩い手刀が落ちる。 体裁だけの謝罪を口にすれば、トレイ先輩はやれやれと肩を竦めて困ったやつだと溜息をついた。 ふ、とゴーグルをつけようとしているトレイ先輩に違和感を覚えて、少し高い位置の横顔をまじまじと見つめる。 何かがいつもと違う気がする、と少し考えて、覚えた違和感が何だったのか直ぐに思い当たった。 「…トレイ先輩、イメチェン?」 「ん?」 「ほら、顔のクローバー…今日は赤なんですね」 トレイ先輩の左頬に描かれたクローバーは、自分の記憶が正しければ黒色だったはずだ。 しかし、目の前の彼の頬に描かれているのは、真っ赤に彩られたクローバーだった。 ケイト先輩あたりにやられたのだろうか?それとも本当に気分で変えたのだろうか?きょとんとした顔をしているのだろう、そんなオレを見下ろしてトレイ先輩は怪訝そうな表情を浮かべて首を傾げる。 「イメチェンって…俺はいつも通りだぞ?」 「へ?」 「お前こそ、今日は赤のハートなんだな。 いつもは黒いのに」 おかしな奴だな、と笑うトレイ先輩にどういうことかと口を開いた瞬間、空気を裂くような破裂音が教室に響いた。 ぎょっとして教卓へ視線を向ければ、クルーウェル先生が革靴を鳴らして教壇に立ったところであった。 今日の授業内容を説明するクルーウェル先生の言葉が、右から左へ抜けていく。 言及するタイミングを逃してしまった。 赤色のクローバーがいつも通り?オレのハートはいつも黒?…トレイ先輩の分かりにくい冗談なのだろうか?ぼんやりと黒板を見つめて考え込むが、すぐに浮かんだ考えを打ち消した。 なんとなくだが、それは違うと自分の勘が告げている。 左目に描かれたハートマークを指先でなぞれば、うっすらと赤色がゴム手袋に付着した。 赤を擦り取るように指先をすり合わせて、なんとなくほっと息をつく。 取り敢えず出された課題をそれなりにこなそう。 でなければ流石に先生とトレイ先輩、両方からどやされる可能性がある。 胸の内に広がるもやもやを振り払うようにして、手にしたゴーグルを頭に付けた。 [newpage] 違和カン 大食堂で昼食を片手に、どこかに空席はないかとテーブルを回る。 沢山の生徒でごった返す食堂では、空席を見つけるのも一苦労だ。 いつもなら監督生やグリム、デュースたちと共に昼食を摂るのだが、今日は午前中の授業がひとつも被っていなかった。 わざわざ探し回るのも面倒で、先に買っておいたパンを片手に食堂にやってきたのだ。 …決して、食堂に来ればアイツらの誰かを探さずとも見つけられるのでは?なんて思った訳では無い。 勘違いすんなよ。 …いやオレは誰に弁解してるんだ。 「お、ジャックにエペルじゃん!何食ってんの」 見慣れた後ろ姿を見つけて、声をかけながら空いていた隣席に腰掛ける。 大きな毛むくじゃらの耳をピクリを震わせて、ジャックはこちらを見下ろした。 エペルがキョトンとした顔で辺りを見渡して、言葉を選ぶように、おずおずと口を開く。 「いつものみんなは…いないんだ、ね?」 「いつもの?あぁ、別に約束して一緒に食ってるわけじゃねーし?」 恐らくあの3人が周りにいないことを指しているのだろうとアタリをつけて、ひらひらと手を振った。 案外仲の良いエペルとジャックが楽し気に交わす会話を聞きながら、当たり障りなく相槌を打った。 そういえばお前、ラギー先輩が探してたぞ」 「…ん?え?」 ふ、と聞きなれない音が聞こえて思わず顔を上げる。 上手く聞き取れなかった。 今誰がなんて言った?思わずキョロキョロしていると、怪訝そうな顔をしたジャックと目が合った。 え?オレに話しかけた?と声をかけると、どれだけパンを食べるのに集中してるんだ、と呆れたように首を振られる。 え、別にそんな集中してなかったけどな。 寧ろちゃんと二人の会話を聞いていたのだけれど。 「え?いまさっきなんつった?」 「だから、ラギー先輩が…」 「いやいや、そこは聞いてた。 そんな俺の態度に、目の前の二人は顔を見合わせて同じく首を傾げた。 もっかい、とお願いするも、やっぱり聞き取れない。 ジャックだからか?とも思ったが、同じくエペルに頼んでも結果は同じだった。 いくら食堂が人でごった返していて賑やかだったとしても、流石にこの距離の、しかも一部分だけの言葉が聞こえないなんてことはありえないだろう。 気持ち悪いな、と顔を顰めていると体調を気にするように眉を潜めたエペルに、疲れてるんじゃないかと微笑まれた。 「良かったらこれ、食べる?」 「え?いーの?これアップルパイじゃん!」 「そ、よかったら…食べて欲しいかな」 「エペル林檎好きじゃなかったっけ?」 食べちゃっていいわけ?と笑えば、エペルは戸惑ったような表情を浮かべて、ちらりとジャックに視線を移す。 どうかしたのかとつられてジャックを見上げれば、こちらも少し困惑したような顔で俺を見下ろしていた。 え、なに、俺変なこと言った? 「俺、…いや僕、林檎が嫌い…なんだけど…」 「…は?」 セットメニューで着いてきて困っていたと告げるエペルをマジマジと見つめる。 …嘘をついている顔ではない。 筈だ、多分。 俺の記憶違いだろうか?いやそんな馬鹿な。 考え込むようにふと視線を下げると、ジャックの前に置かれた皿が目に入った。 もう食べ終わっただろうその皿の上には、グリルのねぎ塩ソースが少し残っている。 「…ジャックって、ネギ食えたっけ」 「あ?…あぁ、」 お前本当に大丈夫か、と告げるジャックに、勢いよく顔を上げた。 驚いた顔をする2人に、にっこりと歯を見せて笑ってみせる。 記憶違い?本当に?胸に芽吹いた違和感が、ムクムクと存在を主張し始めた。 そんなわけない、と冷静なオレが脳内で叫んでいる。 脳裏を過った噂話を首を振ることで追い払う。 じんわりと汗が滲んで、思わずイライラと舌打ちを零した。 [newpage] 違和感 遅いんだぞ!そうグリムに声をあげられて、わりーわりーなんて言いながら箒を受け取る。 浮かんだ違和感は拭えないままだったが、だからといって授業を受けないわけにもいかない。 それに授業をサボってしまえば、あれだけ馬鹿馬鹿しいと鼻で笑っていた噂話を認めることになるような気がして、何だか癪だった。 全部全部、俺の記憶違いか、全学年を巻き込んだ盛大なドッキリに違いない。 いっそそう思いこんでしまいたかった。 心を落ち着かせるようにゆっくり深呼吸を繰り返す。 青く高い空を見上げるとざわざわとささくれ立っていた気持ちが、少し落ち着いた気がした。 ぼんやりと広場を見渡して、おや、と首を傾げる。 グリムと必ず一緒にいる筈の監督生の姿が見当たらない。 トイレにでもいっているのだろうか?でも更衣室近くのトイレには誰もいなかった気がするのだけれど。 「なーグリム、監督生は?」 「ふなっ?監督生?」 「そー、もう授業始まるぜ?」 グリムは心底不思議そうな顔をしてオレを見つめる。 激しく燃える炎のような色を湛えた瞳にまじまじと見つめられて、思わずなんだよ、と呟いた。 なんだか嫌な予感がする。 俺のこういう予感だけは、外れることは無いのだ。 今日一日、散々向けられた視線。 おい、待てって。 …頼むから。 思わず息を呑む俺を見つめ、呆れた顔をしたグリムはぴくぴくと青い炎を纏った両耳を震わせてため息をつく。 オンボロ寮には監督生なんていないんだぞ!」 「は?」 寝ぼけてんのか?そうニヤリと笑われて、思わず身を固くした。 授業開始の鐘が鳴り、どこからともなく登場したバルガス先生の明朗な声が広場に響く。 慌てたように集合するグリムを呆然と見送って、もう一度「は?」と呟いた。 箒を掴んだ手のひらに、じんわりと汗が滲む。 鼓動が早鐘を打って、誤魔化しきれない違和感にぶるりと膝が震えた。 え?なに?…そういうドッキリ?つまんないんだけど。 いつもの俺ならそう言っていただろうけれど、今はそんなことを口にできる余裕はなくて、引くつく喉がかひゅりと音を立てた。 上手く息が吸えなくて、呻くように吐息が漏れる。 足元がぐらつくような感覚に、思わず身体がよろめいた。 バクバクと暴れる心臓を押さえつけて、きょろりと広場に視線を巡らせたが、監督生の姿はやはりどこにもない。 グリムは1人で箒を持って列に並んでいて、それをみんなは当然のように受け入れている。 バルガス先生の「全員揃っているな」なんて嬉しそうな声がいやでも耳に届いた。 監督生がいないことに、なんの疑問も抱いていない、声だった。 そんな馬鹿なこと、あるわけない。 あいつの声も、言葉も、しっかりと思い出せる。 こんなにも詳細に思い出される友人が、記憶違いで産まれるなんてことがあるはずないじゃないか。 …あって、たまるか。 ここにいては、いけない。 再び大きく心臓がはねたのをきっかけに、俺は箒を投げ出して地を蹴った。 後ろから聞き取れない言葉が追いかけてくる。 掛けられる声なんてどうでもよくて、振り払うようにスピードを上げた。 逃げろ、ただひとつその言葉だけが思考を支配して、追い立てられるように広場を駆け抜ける。 落ち着ける場所に行きたかった。 誰もいない場所に、冷静になれる場所に。 頭上では、バルガス先生の号令に合わせてアズール先輩が優雅に箒で空を飛んでいた。 [newpage] 逃走 走って、走って、走り続けて辿り着いたのは、ハーツラビュル寮の中の薔薇の迷路だった。 そこは迷路というだけあって非常に入り組んだ構造をしているため、意図的に合流しようとしない限り人と出会うことはそうそうない。 嫌な音を立てる心臓を抑えながら、上がった息を整える。 ふうふうと息をついて、芝生の上にしゃがみ込んだ。 走ったことで体温が上がっているはずなのに、背筋はぞわぞわと粟立って身体が震える。 落ち着け、大丈夫、落ち着かなければ、解決できることも解決できないだろ?大丈夫、大丈夫。 落ち着け。 大丈夫だ。 必死に自分に言い聞かせて、肺の中にある空気をなるべく吐き出すとパチンと両頬を叩いた。 一度情報を整理しよう。 いくらか落ち着いた脳で、誤魔化しきれなくなった違和感を振り返る。 自分の認識とはズレた行動を起こす友人や先輩たち。 赤いクローバーのトレイ先輩、ネギの食べれるジャック、リンゴ嫌いのエペル、赤い目をしたグリム。 周りの認識とはズレている俺。 そして本来の自分が認識している世界との明確な違いは、『監督生』がこの世界には存在しないということ。 いるはずの人物がいない。 それだけで、ここが元の世界とは違うということを嫌でも理解させられてしまった。 そして聞き取れない一部の言葉。 食堂でのジャックとエペル。 そして先程のグリムも、聞き取れない言語を使っていた。 …おそらく、というか当然、聞き取れていないのは俺だけだろう。 わかっているのは、その言葉は俺に掛けられる言葉であるということ。 例えば、俺に話しかけるとき、そして俺を呼び止めるときだとか。 俺は今、そいつに成り代わっている状況という事か?いや、でもそうなったら、こちらの世界の俺はいったいどこにいる?俺の代わりにあちらの世界に行っているということも考えられるが、そうなると『呪文を唱えると異世界の住人と取り換えっこされる』…とか、そんな噂話になるんじゃないだろうか? アーもう!!と叫んで、噴き出した汗でしっとりと湿った髪を掻きむしった。 とにかくここは、認めたくないが異世界なのだろう。 何とか解決策を見つけ出さなければ、本当に自分は一生、この世界で暮らすことになる。 あちらの世界で行方不明になったまま。 落ち着いたはずの鼓動が、再び嫌な動きを始めた。 ざわざわと不安が心に広がって、固く目を閉じる。 あぁクソ、解決策まで噂で流しとけよ、と顔も知らない噂の発端を恨んだ。 もういっそ、再度あのトイレでまじないを試してみようか。 これ以上悪いことにはならないと思いたい。 呪文を唱えないにせよ、原因を見に行くのは一つの手かもしれない。 頑張れ、俺。 大丈夫だ、俺。 俺がしっかりしなくてどうするんだ。 この世界で、味方なのは自分だけ。 そうだろ、…そう、だろう…—— 「…っ」 ゴクリ、と自分の唾を飲み込む音が頭に響く。 震える左手で顔を覆って、ゆっくりとうなだれた。 ——…言葉が、出てこない。 己を鼓舞しようと繰り返していた言葉に続けようとした、普通ならば忘れるはずのない、『それ』が出てこない。 「…『俺』って、誰だ?」 俺は、オレ、俺が、オレは、俺…俺、で?俺の、違う、オレの名前は…。 ぐるぐると濁流のように襲う思考に、止まった震えがぶり返して、背筋に冷や汗が伝う。 だめだ、思い出せ。 思い出せるはずだ。 じっとりと滲む汗を手で拭って、ぎくりと身体が強張った。 拭った汗が滲む左手に、うっすらと黒ずんだ汚れが付着している。 ゆっくりと震える指先で確かめるように——左目のハートをなぞった。 ぬるりと溶け出したインクの手触りがして、恐る恐る指先を見る。 嘘だろ、そんな、まさか。 黒い塗料が、血の気の引いた指先にべったりと付着していた。 思わず乾いた笑いが口からもろび出る。 「ふざけんな」 固く固く左手を握りしめて、唸るように吐き捨てた。 オレがオレじゃなくなるなんてこと、簡単に認められるわけがないだろう。 自分が消える恐怖と同時に、湧き上がる憤りに目の前が赤く染まっていく。 どうする、どうすれば自分の名前を思い出すことができるのか。 なんとかこの世界に一矢報いてやらなければと怒りに任せて、整備された芝生に爪を立てた。 「オレの好きなものは、チェリーパイ」 思い出せ。 「オレの得意魔法は、風」 思い出せ。 「オレの特技は、手品」 思い出せ。 「オレの、名前は」 思い、出せ。 「っオレの、名前は——」 「エース」 聴きなれた、やや掠れ気味の力強いその声が、オレの名前を呼んだ。 [newpage] 安心 ハッと弾かれた様に顔を上げる。 ピンクのハーフパンツに、ピンクのヒョウ柄のパーカーを羽織ったデュースが、冷ややかな瞳でオレを見下ろしていた。 いつの間にやってきていたのだろうか。 深い海のような青い髪を靡かせて、呆れたように深く深く溜息をついた。 「お前、今日はフラミンゴ当番の日だろう!お前がサボると僕まで寮長に怒られるんだからな」 「、は」 「サボるのは好きにすればいいが、僕までとばっちりを食うのはごめんだぞ」 仁王立ちで腕を組んだデュースを見上げて、思わず詰めていた息を吐く。 いつもなら腹がよじれるほど笑い転げるへんてこなファッションの彼に、泣きたくなるくらいの安心感を覚えている自分に気が付いて、はぁぁと嘆きながら崩れ落ちた。 突然のオレの奇行にびくりと後ずさる彼の足音が聞こえる。 戸惑ったようにしゃがみ込んだ彼は、オレの顔を覗き込みながら口を開いた。 「エース?どうかしたのか」 「…もっかい」 「は?」 「…もっかい、オレの名前呼んで」 心底引いているような、頭のおかしな人を見るかのような顔をしたデュースに咄嗟に拳を握ったが、ここで喧嘩を売っても仕方がないとぐっと抑え込む。 とにかく今は、自分の名前を呼んでほしかった。 あちらの世界にいる間、一言も呼ばれなかった、思い出せなくなってしまった、大切なその名前を。 ふざけているわけではない、と判断したのだろう、怪訝そうに眉をひそめたままではあったが静かにデュースは口を開いた。 「エース。 エース・トラッポラだろ」 「…うん」 「…なんだ、自分の名前も忘れたのかお前」 じんわりと、自分の名前が身体に染み込んでいくような感覚がして、ぎゅっと目を閉じた。 ——エース・トラッポラ。 それがオレの名前。 二度と亡くしてなるものか、と舌の上で何度も何度も繰り返し名前を転がしてなじませる。 芝生の上に倒れこんだままのオレを見ながらふん、と鼻で笑うデュースに、そうだよ!!と叫んでやりたくなった。 オレがつい先程まで体験していたことを懇切丁寧に感情と抑揚を込めて語ってやろうか、とも思ったが、どうせこいつのおつむでは何一つ理解できないだろう。 頭がおかしくなったのか、と同情するような目をするデュースが想像に容易くて、やっぱり殴ってやろうかと拳を握った。 漸くゆっくりと体を起こしたオレを見て、デュースはさっさと立ち上がると薔薇の迷路の出口へと足を向ける。 「行くぞ」というデュースの言葉に、「へいへい」なんておざなりな返事をしながら、ゆったりと彼の後を追った。 「お前、今日一日どこに行っていたんだ?授業にも出てなかったみたいだし…監督生も心配してたぞ、いなくなったって」 「…監督生が」 「あぁ、でもさっき『エースを見かけてないか』って聞いたら、首を傾げられたんだ。 グリムも監督生も『誰?』って。 …お前、二人と喧嘩でもしたのか?」 やれやれと溜息をつきながら告げられた言葉に、思わず目を瞬かせた。 そうか、ちゃんと、ちゃんとグリムと監督生がセットで存在してるのか。 そう、それが正しい。 正しいオレの世界だ。 「喧嘩なんてしてねーし。 」 「どうだか」 つーか会いたくても今日一日会えなかったっつーの。 オレの苦労も知らないで、と思わず唇を尖らせて、視線を落とした。 それにしても、自分が考えていた仮説があながち間違っていなかった事実にぶるりと身を震わせる。 あの世界に塗り替えられかけていたオレは、デュースが告げた監督生やグリムの様子を聞くに、こちらの世界ではどんどんと人の記憶から消えていっていたのだろう。 そして完全にこっちでのオレを思い出せなくなったとき、オレは俺に塗り替えられて、そのまま異世界で過ごすことになる。 こちらの世界ではオレにまつわる記憶がすべて消えるため行方不明ではなく、最初からいなくなったものとされるから事件にもなることはない。 もしも、もしもこいつがオレをきれいさっぱり忘れて探しに来なければ、オレはあのまま異世界に取り込まれていたのだろうか。 オレではない俺として、何の疑問も持たすにあのズレた世界で、日々を過ごしていたのだろうか。 言いようのない不安がこみあげて、ゾッと背筋が冷えた。 ふと左手に付着した黒色が思考を過る。 思わず足を止めれば、すぐに気が付いたデュースがこちらを振り返った。 何やってるんだ、と言いたげな視線を無視して、じっと自分の靴を見下ろす。 何度か深呼吸をした後、気合を入れるように乾いた唇をゆっくりと舐めて、そっと言葉を吐き出した。 「なぁ、トレイ先輩の顔のクローバーって、黒だよな」 「は?!…そう、だったはずだが…」 「じゃあさ、エペルの好物ってリンゴだよな」 「…確か、そうだったと思う」 「じゃあ」 「…」 「じゃあオレの左目のハートって、赤色だよな」 そろり、と靴から視線を上げれば、凪いだ瞳と視線が合って身を固くした。 じいっとこちらを見つめ続けるデュースから視線が逸らせない。 なに、なんなの。 思わず引いてしまいそうになるけれど、それだとなんだか負けてしまう気がしてぐっと耐えて睨み返した。 つい、とオレの後ろに視線を逃がしたデュースに、何を見ているのかと振り返ろうとした瞬間、強い力で胸倉を掴まれる。 そのままずんずんと歩き始めるもんだから、オレはただ足をもつれさせて引きずられることしかできない。 ふざけんなよ、と声を荒げようとして、ぐんっと力任せに放り出された。 「ッっぶねぇ!!!」 「そんなに確認したいなら自分でしろ」 眼前に迫った石畳に、咄嗟に受け身を取って勢いを殺すためにごろんと前転する。 噴水の淵に手を付いて、ようやく身体が止まった。 勢いを殺していなかったら、あの勢いのまま噴水に頭から突っ込むところだった。 止まれたことにほっと息をついて、眼前に迫った水面に目を見張った。 揺らめく水面に映る、驚いた顔をした自分。 その左目に描かれたハートマークは。 「…あかだ」 「…お前、本当に頭でもぶつけたのか?」 「…うるっせえ!このバカデュース!!」 それにしてもやり方が雑すぎるだろう、と今度は抑えることなくデュースに飛び掛かった。 結局殴り合いの喧嘩に発展し、盛大にフラミンゴ当番をすっぽかしたオレたちは、そろって寮長からのお叱りを受けることになる。 ずっしりとした重みの首輪に、あぁ、帰ってきたと安心して目頭が熱くなった…なんて、そんなことは絶対ないんだけど。 [newpage] 今日じゃなければ来なかった 「アァ~…なんか疲れた…」 「お前のせいで結局僕まで怒られたじゃないか…!」 大きく息を吐きながら、ぼふりと自分のベッドにダイブする。 今日一日だけで、何度心臓が変な挙動をしたのだろうか。 寿命が縮んだ気がする、どうしてくれんだよ、マジムカつく。 デュースが喚く言葉を無視して、ふかふかの枕に顔を埋めていると聞いてるのか、と後頭部にばふりと柔らかな衝撃を受けた。 別に痛みはなかったが、大袈裟に「いってーな!暴力反対なんですけど!」と苛立ったように叫べば、ふん、とデュースはそんなオレを見透かすように鼻で笑った。 満足したように自分のベッドに乗り上げる彼から視線を逸らして、ごろりと寝返りを打つと天井を見上げた。 それにしても、無事元の世界に戻ってきたのは良いが、そもそもデュースはどんな手を使ってやって来たのだろうか?寮長に叱られた後、さりげなく鏡の噂を試したのか聞いてみたが、「何でそんなことしないといけないんだ」と顔を顰められたため、デュースがオレと同様噂を試したという説は消えた。 じゃあどうやって?実は霊感がバリバリある系のキャラなのだろうか。 監督生が前に話していたような…寺生まれの…なんだっけ? 「なーデュース、お前って霊感ある人?」 「…レイカン…?」 「あ、ごめんやっぱなんでもねぇわ」 デュースの頭上にハテナが乱立する幻覚が見えて、すぐさま会話を切り上げる。 これは違うわ。 未だにハテナを飛ばすデュースは、「…冷感…?」と考え込んでいる。 だからもういいってば。 漢字も違ぇし。 ごろりと体勢を横にして、うんうん唸るデュースを見つめた。 薔薇の迷路での凪いだ瞳を思い出して、あの時とはまるで別人だなと鼻で笑う。 それにしてもなんでこいつだけ、オレのことを覚えていたんだろう。 目の前の彼と同じだけ、一緒にこの学園での時間を共有している監督生やグリムでさえも、きれいさっぱり忘れていたようだったのに。 覚えていられる人間には、なにか一定の条件でもあるのだろうか。 異世界に迷い込んだ人間を忘れない条件ってなんだ? ぐるぐると考えを巡らしてみても答えなんて出るはずもなく、やめやめと思考を放棄した。 戻ってこれたんだからもういいや。 こんなことを考えるなら、オレにこの話を教えてきた友人を懲らしめる方法を考えた方が楽しいだろう。 「なぁ、オレらに鏡の噂話を最初に話してきたのって誰だっけ?」 「鏡の噂?…あー……?確か…、エルダーじゃなかったか」 「エルダー?…誰それ、うちの寮?」 「は?お前…っ!よく話すルームメイトの名前も覚えてないのか?!」 「…ルームメイト?」 聞きなれない名前を聞き返せば、眉間にシワを寄せたデュースが驚いたように言葉を紡ぐ。 思わずオウム返しにして、身を起こした。 ルームメイト?この部屋の?ばくん、とオレの心臓が大きく跳ねる。 今日は大忙しだな、なんて軽口を叩く気にもなれず、思わず胸元のシャツに爪を立てた。 「…オレらって、四人部屋だけど3人利用、だろ?」 「何言ってるんだ。 うちの寮の1年は今回、人数が綺麗に4で割れるから、全室4人利用だって初日に説明を受けただろ。 …お前、今日は本当にどうしたんだ?」 呆れ顔から一転して、デュースは心配げな表情を浮かべた。 こいつがオレにこんな顔をするなんて、明日槍でも降るんじゃないだろうか?…いや、こいつがそんな顔をするほどに、今のオレは酷い顔をしているのだろうなと、どこか冷静な部分でぼんやりと考える。 じっとりとした冷や汗が背筋を伝って、顔から血の気が引いていくのが分かった。 はは、と乾いた笑いが口から零れる。 そんなの、知らない。 噂の発端であり、オレともよく話す、エルダーというルームメイトの男なんて、そんなやつの記憶はオレにはない。 …ない、はずだ。 「…そいつってさ、昨日居た?」 「…いや…?そういえば、2日前から部屋に戻ってきてないな。 」 「2日前?…その前の日に、オレらと話してたんだよな?」 「あぁ、寝る前に少しな。 …お前、ほんとに覚えてないのか?噂話を面白がって、エルダーに試してみろって焚き付けてたのはお前だぞ」 「…」 飛び出してしまうんじゃないかと思うほどに暴れる心臓を押さえつけて、ごくりと息を飲んだ。 これ以上はやめた方がいい。 分かっているのに、言葉は口から零れ落ちる。 「…探したり、しなかったわけ?」 「なんで僕が…幼児相手じゃあるまいし。 まぁ、自分の部屋以外で寝泊まりしてはいけない、なんて校則もないし、どこかダチの部屋で泊まっているんじゃないのか?」 「学校で見かけた?」 「…………そういえば見てないけど……、授業が被ってないだけだろ?」 なんでそんなこと聞くんだ?と首を傾げるデュースから思わず視線を逸らす。 疑念は既に確信に変わっていた。 噂の発端で、オレのルームメイトでもあったはずのエルダーは、オレの煽りに焚き付けられて、2日前にあの鏡の前で呪文を唱えてしまったのだ。 そして、逃げることも出来ずに塗り替えられ、あの世界に取り込まれてしまったのだろう。 …エルダーのことを覚えている人間が、探しに来ることもなく。 いやに喉が乾いて、何度も口内の唾を飲み込む。 カラカラに乾いた唇が、暴れる心臓を抑える手が、意思に反してぶるぶると小刻みに戦慄いた。 「…あのさ」 「次はなんだ」 「…今日がフラミンゴ当番の日じゃなかったらさ、お前オレのこと、探してた?」 オレの言葉にきょとりと目を瞬かせたデュースは、眉尻を下げて三日月のように目を細めて笑った。 「僕はお前のママじゃないぞ?…用もないのになんでわざわざ探さなきゃいけないんだ」.

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