心 開い てく 黒船 来航。 なぜアメリカは「開国」を要求したのか?黒船来航が日本に与えた影響

[抜書き]『黒船以前 パックス・トクガワーナの時代』

心 開い てく 黒船 来航

A ベストアンサー アメリカにいますが、子供のbaby bookにはMy first~や When I first... という感じで書いてます。 お食い初め、節句等ははアメリカにはない行事なのでなんともいえませんが 離乳食=My first solid food 最初の歯が生える=My first teeth 寝返り=When I first rolled over 散髪=My first hair cut お座り=When I first sat unsupported はいはい=When I first crawled つかまり立ち=When I stood up with help 伝い歩き=My first step with help あんよ=My first step alone こんな感じで日にちと写真を一緒に我が家ではしております。 参考になればよいのですが・・・。 Q 友人の赤ちゃんの写真をアルバムに収め、プレゼントしようと思っています。 パソコンで加工してアルバムを作っているのですが、デザイン的に英文のフレーズを数カ所に入れたいと思っているのですが、どんな文章を入れたらいいのかサッパリ分かりません。 赤ちゃんは生まれて3ヶ月くらい経っているので、「お誕生おめでとう」とかよりは、「すくすく元気に育ってね」「あなたの笑顔が大好きよ」とか、そんな感じの文章がいいのかなと思っているのですが…。 一言でもいいし、5、6行の長い文章でもデザイン的にかっこいいななんて思っています。 訳が上手く出来ないので、教えて頂けると助かります。 また、赤ちゃんへ送る常套句のようなものがあれば教えて頂けると嬉しいです。 出来ましたら、何パターンか教えて下さい。 つたない質問で申し訳ないのですが、よろしくお願い致します。 A ベストアンサー アメリカに38年半住んでいる者です。 私なりに書かせてくださいね。 写真一つ一つの説明でなくところどころのページlに入れるものですね。 You are so beautiful. Your smiles make everybody so happy!! Your mom and dad are so proud of you!! Happy life is ahead of you!! 最後のページにNG特集みたいにして、Enjoy these 30 years from now to show your new family! そして、各写真にもちょっとお茶目なキャプションを載せてもいいと思いますよ。 笑っているなら、 I love your "smiley face" よく寝ているなら、What are you dreaming about? など写真の状況にあわせて「語りかけている」様なキャプションもいいものですよ。 これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。 アメリカに38年半住んでいる者です。 私なりに書かせてくださいね。 写真一つ一つの説明でなくところどころのページlに入れるものですね。 You are so beautiful. Your smiles make everybody so happy!! Your mom and dad are so proud of you!! Happy life is ahead of you!! 最後のページにNG特集みたいにして、Enjoy these 30 years from now to show your new family! そして、各写真にもちょっとお茶目なキャプションを載せてもいいと思いますよ。 私を知っている人たちはこれをよく... A ベストアンサー アメリカに37年住んでいる者です。 私なりに書かせてくださいね。 日本語を英語に治すときにまず最初にすることは、日本語の単語を辞書を引きながら一つ一つかテイクのではなく、何がいいたいのか、を考えるとよりわかりやすくなると思います。 生まれてきてくれてありがとう、と言う表現を純粋に考えると、ちょっと待てよ、子供が自分の力で私たちのためにうまれ出てきたわけじゃないよな、と考えられますね。 ですから、生まれてきてくれて、と言う表現を他の日本語に変える、少なくともどういう意味なのかを考える、と言うことをするわけです。 これを私はフィーリングと呼んでいます。 生まれてきて、と言うことは、父親の方がよくわかりますが、親の世界に一人の人間として現れてくれ人生の一ページとなってくれた、と言うことかもしれませんね。 また、父親としては生まれてきてはじめて子供なんだということに実感を感じることができるわけですね。 ですから、生まれてきてくれて、と言うことは、無事に生まれてきてくれて、と言うフィーリングもあるでしょうし、家族の一員となったことの喜びを表現していることかもしれませんね。 無事に、と言うフィーリングであれば、 We are very happy that you were born healthy. 健康に生まれてきてくれてありがとう。 We are so glad to know you are a healthy baby. 健康な赤ちゃんで本当によかった。 Thank God for your healthy arrival. 神様、病気の問題もなくつれてきてくれてありがとう。 Thank you for arriving in good health. 健康で(生まれて)きてくれてありがとう。 家族の一員となって、と言うフィーリングであれば、 We are so happy to have you in our family. 家族の一員として君を受けることができ大変うれしいです。 You are now our treasure in our family. さぁ、君は家族の宝物になったよ。 We want you to know you made us proud parents. 君は私たち二人を自慢であふれた親にしてくれたことを覚えておいてくださいね。 For the rest of your life from now, you are our precious jewel. 今から一生君は私たちのすばらしい宝石です。 There is nothing that can make us happier than having you in our arms. 君を腕に抱けることは何よりも私たちを幸せにしてくれます。 また、Thank you for becoming a part of our family. 私たちの家族の一員になってくれてありがとう。 と言う表現もできますね。 もう一度この日本語の表現のフィーリングを考えてください。 もしかしたら上のフィーリングとは違うものをあなたは持っているかもしれませんね。 どっちを使うにしてもあなたのフィーリングと合わなくてはどんなすばらしく見える表現でもまったく意味のない表現となってしまいます。 これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。 アメリカに37年住んでいる者です。 私なりに書かせてくださいね。 日本語を英語に治すときにまず最初にすることは、日本語の単語を辞書を引きながら一つ一つかテイクのではなく、何がいいたいのか、を考えるとよりわかりやすくなると思います。 生まれてきてくれてありがとう、と言う表現を純粋に考えると、ちょっと待てよ、子供が自分の力で私たちのためにうまれ出てきたわけじゃないよな、と考えられますね。 ですから、生まれてきてくれて、と言う表現を他の日本語に変える、少なくともどういう意味な... A ベストアンサー 私も規則的な張りが陣痛の始まりでした。 初めに気づいたのが10分間隔。 もしかして、と思ったのでお風呂入ってシャンプーしてました 笑 それが朝の4時半頃で、とりあえず病院に行こうと思ったのが7時半。 その頃には5分間隔で、痛みはお腹を壊した時のような感じだったと思います。 実際、汚い話で恐縮ですが下痢気味だったのもあったのかも知れませんが^^; 病院に着いたのが8時で、その頃には間隔は3分無かったです。 お腹が痛いと言うよりは腰が酷くて・・・ 苦しいって感じだったと思います。 でもそこから生まれるまで9時間半掛かりました。 初産婦ですぐ生まれると言うことはあまりありませんが、 病院に一度電話してみた方が良いと思いますよ! いよいよですもんね! 焦る気持ち、よく分かります。 検索してみましたが、1th を使っているのはほとんど日本のサイトで、間違いといっていいでしょう。 「あるサイト」というのも見てみましたが、断言しているのではなく使用例からの推測や感想を書いているといったほうがいいでしょう。 しかしそのサイトの管理者が「それは間違いです」と書いていないのが不思議です。 性格のためかそのサイトの雰囲気に否定的な文章は似合わないと判断したのでしょうか。 それにしても 1th の標記をしているひとはこれをどう発音しているのでしょうか。 中にはこう書いて「ファースト」と読んでいるようなところもあるみたいですが。 A ベストアンサー アメリカに38年半住んでいる者です。 私なりに書かせてくださいね。 アルバムに書くと言う事はそのアルバムを見る人がこの赤ちゃんの生後数を知らせると言う事ですね。 つまり、硬く考えなくてもこちらでやっていることはそんなに難しい事ではないわけですので、「それでいいんだ? 」と言うフィーリングを感じる回答になります。 新生児期はnewly born, Zero day old, the first day in life, at the hospital, just arrived at home, a few days old, second week in lifeと言うような言い方をすればいいのですね。 また、赤ちゃんから見た表現もよく使われます。 my first day, my second week, と言う感じですね。 あかちゃんの台詞、と言う事です。 お茶目っぽく書きたいのであれば、first day mommy lost weight after 9 months こちらでは妊娠9ヶ月と言います 、the first day daddy touched you for the first time, 赤ちゃんの言葉で、the day I saw daddy for the first time, the day my daddy touched meというかんじですね。 生後1ヶ月、生後2ヶ月はone month old, two months old, One month after, two months after. 赤ちゃんの言葉で、My second month, I became 2 months old!! と言う風に持っていくことも出来ますね。 と言う事で、生後と言う表現をヶ月・日、週oldと書けばいいわけです。 これでいかがでしょうか? 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。 アメリカに38年半住んでいる者です。 私なりに書かせてくださいね。 アルバムに書くと言う事はそのアルバムを見る人がこの赤ちゃんの生後数を知らせると言う事ですね。 つまり、硬く考えなくてもこちらでやっていることはそんなに難しい事ではないわけですので、「それでいいんだ? 」と言うフィーリングを感じる回答になります。 新生児期はnewly born, Zero day old, the first day in life, at the hospital, just arrived at home, a few days old, second week in lifeと言うような言い方をすればいい... echos1. Sweet Sweet Baby! echos1. で、37週で3センチのまま、38週で5センチ、39週で5cmで 子宮口も柔らかくなっていると言われました。 結局産まれたのは、39週3日目でした。 子宮口が開いていても柔らかくならないと産まれて こないみたいで、早く産みたかったので 39週の検診のときに柔らかくする 薬を入れようと言われたのですが、内診ですでに 柔らかくなっているので薬はやめました。 その3日後に破水から出産になりました。 私も3cm開いていると言われてからは、 いつ陣痛がくるかとドキドキしていました。 36週の頃から推定体重も2500グラムを超えていて いつ産まれてもいいと言われていて よく歩いてねーと先生に言われて散歩してましたよ。 でもなかなか出てきてくれませんでした(笑) 陣痛がきても子宮口がなかなか開かず苦しい思いを する方もいるのですでに開いてると少しはラクかもしれ ませんよー 私は初産でしたが2時間で産まれました。 本当に辛い陣痛からは1時間で産まれてきてくれて 超安産と言われました。 あと少しで赤ちゃんに会えますね。 頑張ってくださいね。 私は36週の検診で子宮口が3cm開いていると言われました。 で、37週で3センチのまま、38週で5センチ、39週で5cmで 子宮口も柔らかくなっていると言われました。 結局産まれたのは、39週3日目でした。 子宮口が開いていても柔らかくならないと産まれて こないみたいで、早く産みたかったので 39週の検診のときに柔らかくする 薬を入れようと言われたのですが、内診ですでに 柔らかくなっているので薬はやめました。 その3日後に破水から出産になりました。 私も3cm開いていると言われてからは、... A ベストアンサー 現在、予定日を目前に控えた妊婦です。 たぶん、ほとんど同じ痛みを私も体験しています。 まさに膣が刺さるような痛み。 膣とか、子宮口とかの方向に向けて、太めの針でズーンと刺されるような、結構な痛みが、9ヶ月くらいからたまに感じるようになり、臨月になってからはしょっちゅうです。 そして予定日1週間をきってからは毎晩、ものすごく「その痛み」があるんです。 妊婦友達が複数いますが、少なくない人が同じ痛みを体験しているので、「きっと赤ちゃんの頭突きだろうね」と笑っています。 先日、かなり頻繁にその痛みがあり、その直後に検診に行ったら、赤ちゃんが随分下がっており、子宮頸管も短くなり、子宮口も開き気味。 まさにお産に向けての準備として、赤ちゃんがメリメリと下降したんだなぁと思わせられました。 診察では特に異常もなかったし、後期特有の症状かな、と思います。 donpatiさんも検診で特に言われなかったのなら、少なくない妊婦が体験する痛みじゃないかしら? お互い元気な赤ちゃん産みましょうね。 Q 百日祝いを英語に訳したいのですが、ある写真館の商品には「100 Days Anniversary」と書かれていました。 よろしくお願いします。

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【中国】日本人はどうして「侵略者」であるはずの黒船やペリーをリスペクトし、像まで建てるのか=中国メディア[12/05]

心 開い てく 黒船 来航

なぜアメリカは「開国」を要求したのか?黒船来航が日本に与えた影響 画像:1852年製造のポーハタン号(幕末明治大正「回顧八十年史」) 徳川幕府がアメリカと締結した日米和親条約をきっかけに日本は幕末に入るわけですが、すべては 「黒船」の来航から始まりました。 突如として現れた黒船に江戸の民衆や幕府の役人たちは大慌て。 そして、きっと彼らは思ったでしょう。 「あいつらの目的は何だ?」と・・・。 今回は、知っているようで意外と知らない 「黒船来航の理由」についておさらいしてみたいと思います。 なぜアメリカが幕末の日本に来航したのか、その目的は何だったのでしょうか。 黒船来航と幕末 画像:ペリーの像(東京都港区芝公園) 日米和親条約を結ぶまでの日本は朝鮮王朝、明朝と清朝(中国)、オランダ東インド会社(オランダ)との貿易に限られており、他国との交易は禁止されていました。 ちなみに鎖国の期間は、南蛮船(ポルトガル船)の入港禁止(1639年)から日米和親条約が締結される(1854年)までを指すのが一般的です。 さて、ペリー提督を乗せた黒船が浦賀(横須賀市久里浜)に上陸したのは1853年7月8日。 ペリーは、ミラード・フィルモア大統領から預かった国書(手紙)を幕府に渡し、その国書には 「開国の要求」が記されていたとされます。 翌年に幕府は日米和親条約を締結し、日米和親条約の具体的な条約文が追記された下田条約を再び締結。 それを皮切りに、様々な国と条約を締結し、日本の鎖国は解かれることになります。 半ば独断で日米修好通商条約を締結した井伊直弼に不満を抱き、やがて安政の大獄で恨みを買った井伊は水戸浪士らに暗殺されてしまうわけです。 世にいう桜田門外の変ですね。 さらに、幕府に対する尊皇攘夷派の反発は膨れ上がり、大政奉還や王政復古の大号令を経て、最終的に幕府は戊辰戦争で新政府軍に負け壊滅しました。 このように幕末の引き金となった黒船来航ですが、そもそもアメリカの目的は何だったのでしょうか。 開国の目的 画像:1843年製造のサラトガ号(幕末明治大正「回顧八十年史」) アメリカが日本に開国を求めた目的は主に2つあります。 一つ目は、 「アジア諸国と貿易するにあたり中継地点として日本が便利だった」こと。 当時のアメリカ合衆国はアメリカ東部(ワシントンDCやボストン、ニューヨークやフィラデルフィアなど)に人口が集まっており、インドや中国の輸入物資を大西洋からアメリカに運んでいます。 ところが、カリフォルニア(アメリカ西部の地域)で金山の発掘が始まるとアメリカ西部に人口が流れ込み、輸入物資をアメリカ西部にも運ばなければならなくなりました。 アメリカ東部は太西洋に面しており、インドや中国の輸入物資はノルウェーを経由し、船で大西洋を渡ってアメリカ東部に運ばれていたそうです。 しかし、西部は太平洋に面しており、物資を東部から西部まで運ぶには、西大西洋に南下し、南米大陸を周って太平洋へ渡航しなければならないので非常に効率が悪かったのです。 とはいえ、インドや中国から大平洋からアメリカ西部へ直行しようとしても燃料の問題などが生じるため、日本を中継地点(寄港)にすれば効率が良くなるという狙いがありました。 そして2つ目は、 「捕鯨船の停泊地・休養地として港を使いたかった」こと。 ペリーの日本遠征記には、当時の様子が次のように記されています。 吾が人民にして、日本沿岸に於て捕鯨に従事するもの甚だ多し。 荒天の際には、吾が船舶中の一艘が貴国沿岸に於て難破することも多い。 そのときは不幸なる人民を親切に迎え、その財産を保護してくれると期待するものなり 石油が燃料の主軸となるのは19世紀の後半で、それまでは鯨から採取される油を活用していました。 当時、太平洋北部は世界的にも有名な鯨の捕獲地で、捕鯨に注力していたアメリカにとって日本は寄港地として条件が整っていたのです。

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浅葱色の桜

心 開い てく 黒船 来航

当時のポルトガル王は、スペイン王フェリペ3世が兼ねており、同君連合の形で、外交に関しては、一体化していました。 そのため、スペインの来航禁止とポルトガルへの禁止は、同一の物と考えてさしつかえありません。 スペインとポルトガルが分離するのは、1640年です。 スペインやポルトガルの日本への来航禁止は、イギリスとオランダの誇張した話を日本側に流した事も原因としてあるようです。 当時のイギリスは、徹底したスペイン嫌いのエリザベス1世の治世の時代でしたし、オランダは、スペインとの独立戦争に決着がついていない時期です。 この2国が、自分達の行為を棚に上げて、スペイン・ポルトガルの危険性を誇張した事も原因でした。 植民地を直接搾取したイギリスやオランダに比べ、ポルトガルの植民地は、ポルトガルの人口の少なさから、通商を独占するのみに留まる場合が多く、現在考えている植民地形態とは、異なっています。 スペインの場合も、アメリカ大陸では、直接統治ですが、アジアのフィリピンの場合、地理的関係もあり、やはり通商の確保が中心でした。 (実際には植民地化しなくても、植民地宣言し、そこでカトリックが広まれば、自然とスペイン・ポルトガルの利益になったのです。 ) 日本でのカトリックの布教は、スペインやポルトガルの国庫収入を増やし、国力の増強になります。 カトリックの布教を禁ずる事は、そんなイギリス・オランダの利害にも関係していました。 イギリス国教会は、イギリス独自のキリスト教ですから、海外布教には熱心ではありませんでした。 オランダの改革派教会も、この当時は、教義が固まっておらず、とても海外布教などできる状況ではありませんでした。 国教会・改革派教会の教義が固まるのは、ピューリタン革命(1642年)から名誉革命(1688年)にかけてです。 キリスト教対策と通常は言いますが、厳密にはカソリック教会(イエズス会)対策です。 カソリック教会はローマ法王を戴く、現代でも最大の宗教組織です。 1600年代、植民地化政策がヨーロッパで始まった頃、カソリックは最大のパトロンでした。 その資産は、当時のヨーロッパ各国の1国の富より大きかったのです。 そのため、商人や植民地化しようとするスペイン・ポルトガル政府は実利を、カソリック教会は信者を増やすために結託して船を出しました。 宣教師は、布教し信者を増やす役割と共に、侵攻しようとする国を査察(スパイですね)し逐一本国に伝えていたのです。 それを見破った秀吉・家康の政策でキリシタン(カソリック教会)禁止政策が取られたのです。 多分最初はキリシタンだけ禁止すればよいと思ったのではないでしょうか、海外貿易はものすごい利益を生んだようです。 しかし、やはり国と教会を分離することが出来ずに渡航禁止になったのだと思います。 ちなみにオランダは、キリスト教国ですが、プロテスタントの国で、カソリックのスペインから独立した国ですので、カソリック教会の影響はないとされて出島の渡航が許されました。 何しろ島原の乱の時、幕府に協力して、篭城中の日本人キリスト教徒たちに砲撃までしてますから。 (他の欧州キリスト教諸国からは「そこまでして金儲けしたいんか!?」と大顰蹙だったそうです) 当時のオランダにとって、対日本交易は結構な利益でした。 独占出来ればこんなにオイシイ話はないので、表から裏からアレコレと頑張っていたようです。 (以前NHKで見た歴史番組によれば、そもそも、ポルトガルとスペインは布教目的で来日するから追い出したほうがいい、と進言したのもオランダだった、という話です) 幕府としては、キリスト教に関係の無い国となら貿易しても構わなかったのですが、それぞれいろんな事情があって、「皆そろって長崎で交易」というわけではありませんでした。 逆に言えば、長崎を通して交易していなかったからと言って、日本と交流が全く無かったわけではない、ということです。 以下、知っている限りで並べておきます。 これらの藩は、江戸時代以前からの交易相手であり、財政も交易の上りで成り立っていました。 他藩に横入りされると死活問題なので、江戸幕府成立前後は硬軟様々な手段を講じ、「対XX交易のエキスパート」という地位を獲得しました。 (通信使や慶賀使は国家同士の公式の使節のやりとり。 民間の貿易商のみ往来。 しかし、遠い上に、対日交易を独占したいオランダが妨害工作することもあって、いつの間にか来なくなってしまいました。 東南アジア諸国の物産はオランダや清の民間商人が持ってきてくれるので、日本人は別に困ることもなく放っておいたと思われます。 何しろ島原の乱の時、幕府に協力して、篭城中の日本人キリスト教徒たちに砲撃までしてますから。 (他の欧州キリスト教諸国からは「そこまでして金儲けしたいんか!?」と大顰蹙だったそうです) 当時のオランダにとって、対日本交易は結構な利益でした。 独占出来ればこん... A ベストアンサー 江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。 そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。 同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観とは相容れなかった。 欧州では支配者と創造主は同一であるという「神権政治」、そこから発展した、王の地位は創造主より授けられたものという「王権神授」という伝統的倫理観が土壌にあります。 そのような倫理観がない世界(日本)に創造主の絶対性を重んじる思想は、主君・領主への忠誠より、創造主への忠誠を優先させます。 このことが天下統一のさわりになると、豊臣秀吉は天正15年(1587)に禁教令を発します。 さらには外交政策の面。 徳川家康は和平外交を進めるため、当初は信仰を黙認していましたが、慶長5年、オランダ船リーフデ号漂着により、プロテスタントであるオランダ・イギリスと交渉開始。 日本市場の拡大を図るため、ポルトガル・スペインの締め出しを計画。 そこでカトリックへの不利な情報と中傷を行いました。 つまりカトリック国の侵略的意図。 信徒を利用した反乱計画などをは、当時の幕府としては「天下統一のさわりになると」いう危惧をより拡大させました。 禁制により教会の破壊・宣教師の国外追放。 信徒の東北・蝦夷地への放逐などが行われました。 徳川家光はさらに厳しく禁制を行いますが、寛永14年(1637)の島原の乱による衝撃から、鎖国政策の徹底とキリシタン弾圧はより強固となります。 カトリックの海外布教は、プロテスタントに対する対抗措置という面がありました。 その点、海外布教を重視していないプロテスタント国とは幕府は貿易を行えたのでしょう。 参考 『国史大事典』(吉川弘文館) ただし、禁制も太平の世が長く続くことで形骸化していき、当初はキリシタン監視の意味でもうけられた寺請制度も、寺院側からすれば「檀家としての勤めを果たしていれば、裏でキリスト教を信仰していても黙認する」という事実もありました。 領主も「良き領民としての勤め」を果たす限りは信仰も黙認状態でもありました。 キリシタンであると暴露しても、領主の監督不行届と罰せられる危険性があったからです。 現在でも「カクレキリシタン」の家では、寺院の檀家であり、神社の氏子であり、家には仏壇・神棚が祀られて、同時にカクレキリシタンである。 その信仰体系は仏教・神道・民間信仰とキリスト教が混在した、いわゆるカトリック・プロテスタントとは異なる信仰形態ですが、キリスト教公認以後も、カトリック・プロテスタントに改宗せず、先祖が守ってきた信仰として「カクレキリシタン」として守り続ける家があります。 nagasaki-np. amazon. キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。 そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。 同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観... A ベストアンサー 本当に大まかな話なので、ひょっとすると間違いがあるかもしれませんが・・・ 安土桃山時代から江戸時代にかけて日本で布教されたのはカトリック系のキリスト教でした。 広めたのはイエズス会の宣教師で、フランシスコ・ザビエルが有名ですね。 また、彼らが広めたカトリックは、偶像崇拝(キリスト磔刑の十字架や聖母図を信仰の対象とし、拝むこと)をするキリスト教なので、日本人の信徒はマリア像や十字架をあがめました。 それで、幕府がキリスト教を禁じた際、信徒かどうかを確かめるために、踏み絵をさせた訳です。 (カトリックの信徒にとっては十字架や聖母図は踏めませんからね) ところが、そのころ日本に進出していたオランダ商人はプロテスタント系キリスト教(偶像崇拝を否定するキリスト教)信徒が多かった(ここ以降は多少あやふやな記憶ですので、あまり自信ありません)ために、「我々はキリスト教ではない。 証拠に十字架なんぞはいくらでも踏んでみせる・・・」というようなやり取りがあって、「オランダはは邪蘇教(ヤソ教=江戸時代におけるキリスト教の呼び名です)ではない」というのが幕府の公的見解になって、出島でのみ貿易を許可された・・・という話だったと思います。 ただ、実際は、幕府もオランダが「ちょっと変わった」キリスト教であるということは知っていたようですが、鎖国しているとはいえ、世界の状況も知っておいた方が良いということで、目をつぶっていた・・・という話もあります。 長くなってしまいましたが参考になれば・・・ 本当に大まかな話なので、ひょっとすると間違いがあるかもしれませんが・・・ 安土桃山時代から江戸時代にかけて日本で布教されたのはカトリック系のキリスト教でした。 広めたのはイエズス会の宣教師で、フランシスコ・ザビエルが有名ですね。 また、彼らが広めたカトリックは、偶像崇拝(キリスト磔刑の十字架や聖母図を信仰の対象とし、拝むこと)をするキリスト教なので、日本人の信徒はマリア像や十字架をあがめました。 それで、幕府がキリスト教を禁じた際、信徒かどうかを確かめるために、踏み絵を... A ベストアンサー 朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。 ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。 幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。 ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。 wikipedia. ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。 (今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。 ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです) 朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。 ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。 幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。 ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという... A ベストアンサー まずですね、一神教ってのが興るんです。 「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。 この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。 この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。 そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。 ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。 しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。 かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。 ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。 そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。 さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。 その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。 その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。 その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。 その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。 ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。 ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。 日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。 イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。 ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。 ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。 そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。 イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。 「ベイベー、愛だぜ」と。 彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。 後になんだかんだでイエスは神の子となりました。 マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ? それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。 愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。 その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。 なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。 当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。 そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。 それ以上にブチ切れたのはローマ人です。 「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。 ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。 これがディアスポラです。 以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。 時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。 イスラム教の誕生です。 ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。 そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。 おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。 ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。 ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。 イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。 しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。 そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。 エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。 かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。 まずですね、一神教ってのが興るんです。 「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。 この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。 この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。 そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。 ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ... A ベストアンサー No. 10です わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。 お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。 >幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか? 正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。 どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。 結果として左程の効果はありませんでした。 幕閣のアリバイ工作にはなったでしょう。 一方江戸時代の中頃1730年前後から大阪で米の先物取引が始まっていました。 現在世界中で行われている商品先物取引は大阪が発祥の地です。 つまり現物取引と先物取引が現在と同様に混在して市中価格が決まっていました。 ただでさえ経済に疎い幕閣には到底理解ができなかったようです。 この程度の経済知識のレベルでの判断でやる市場介入ですから効果を期待する方が無茶でしょう。 ではなぜ制度的にやらなかったのか、という点については、いろいろ議論はあります。 幕府という組織はあくまでも軍事組織で、勘定方も戦費調達係のような位置づけではじまりました。 市場は全くの自由経済市場でした。 おそらく、室町時代からあった座という独占経済体制を織豊時代に破壊して楽市楽座という自由経済体制に移行させていた考え方がそのまま継承されて放置されてしまったためかと思います。 関ヶ原の戦も終わり100年程経ったころには、経済力は完全に町人の手に移ってしまっていました。 いわゆる元禄時代の到来です。 政治体制は戦国時代のままで、肝心の武家自身の日常生活は貨幣経済に飲み込まれていました。 この状態で、幕府による米の専売制度化は不可能に近い状態になっていました。 そもそも元禄時代直後の享保の改革などいう経済政策を行わなければならなくなったのは、家康時代にセッセと蓄えた資産を食いつぶしてしまった結果でした。 ロクに財源もないのに専売制は到底やれるものではありませんでした。 >インフレが起こっても米を売って現金に変える幕府には米価と他の商品との価格の比率が変わらなければ問題ないと思うのですが何か間違っていますでしょうか? 需要と供給の関係です。 一つは、大名連中は収入=米を増やすためにセッセと領内の新田開発を進めました。 年貢といいますのは、あくまでも村単位で課税されるもので現在の所得税にように個人単位のものではありませんでした。 村の中で誰が納めるのか、ということになり、当然大地主の裕福な農家が納めることになりました。 つまり一定規模以下の農家は無税でした。 この年貢を負担した農家を本百姓、無税の農家を水呑百姓と呼びました。 水呑は正式な身分呼称として扱われた名称です。 大地主は租税負担を軽減するために実際に農作業に従事していた人達に田畑を小分けして割譲しました。 他人の田んぼと自分の田んぼでは労働意欲が違いますから自然に村全体の収穫量は増大していきました。 田畑の割譲は「たわけ!」と悪口に使われるほど武家は嫌って禁止もしましたが収まりませんでした。 禁止令がでていますが、それ以降の日付の割譲契約や売買契約の書状が沢山残っています ということで米の供給量は年々増えていきました。 武家が米を現金に換えるのは大阪か江戸でした。 つまり、この二大都市では米は必然的に潤沢にありましたから米の相場価格は下がり続けました。 年ごとの作況による上下は当然ありました。 一方、衣住のほうは平和な時代ですからいくらでも需要がありました。 食も米以外の食材への需要もいくらでもありました。 食材も贅沢になっていきました。 そもそも倹約令なるものが度々だされるのは、年々贅沢になっていき倹約令そのものに効果がなかった結果です。 インフレになれば即値上がりしました。 つまりインフレ効果は米価には影響が極めて少なかったとお考えください。 武家の収入は米だけですから、たちまち貧乏になってしまいます。 >何故大名は国元だとお金を使わないのでしょう? まったく使わないのではなく江戸にいるよりも使わなくて済んだということです。 戦が無い時代の大名というのは、冠婚葬祭、節句行事などが最重要な仕事でした。 これに伴う贈答費用いわゆる慶弔費、交際費です。 年々派手になり半端な費用ではありませんでした。 しかも最も喜ばれるのが小判でした。 江戸時代の金貨である小判というのは、通貨であるとともに贈答用の景物という性格も持っていました。 大判は景物として最高のものでした。 (むしろ通貨としては使われませんでした) 幕府もたびたび倹約しろ!といいますが幕閣自身が見栄の張り合いをやっていましたからどうにもなりません。 大名と呼ばれるお殿様は日常は一汁一采が普通でたまにつく魚も鰯か干物でした。 これが来客となるといわゆる大名料理がずらりと並びました。 形式第一主義社会を生きるのは大変です。 つまり国元に引っこんでいれば交際費はかかりません。 江戸城へ出かかるための行列をそろえる必要もありません。 形式見栄の時代ですから、喰うものを喰わなくても行列は飾りました。 食材も潤沢に現物が手に入ります。 蛇足 交易で得る金額などたかがしれていました。 木造帆船で運ぶ貨物量などたかが知れています。 品物の価格もしれたものです。 100両のツボを1万個売ってもせいぜい100万両です。 幕府や大名家の財政規模とは桁が違います。 秀吉の時代とは経済規模が違います。 そもそも人口が違います。 交易で財政が潤うのであれば長崎での交易を独占していた幕府が財政難に陥る訳がありません。 薩摩島津家は500万両余の借金を抱えていました。 40年年賦払いなどとムチャクチャをやって明治時代も廃藩置県になるまで借金返済に走り回っていました。 金もろくに払わない薩摩の江戸藩邸に近寄る町人はいませんでした。 10です わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。 お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。 >幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか? 正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。 どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。 結果として左程の効果はありませんで... A ベストアンサー 貨幣の元を理解すれば簡単です。 現在の貨幣で考えていては理解出来ません。 昔の貨幣は金や銀そのもを形にしたものでした。 従ってとの価値はその金属の価値と同じです。 ところが、政府が悪知恵を出して質の悪い貨幣を作りました。 即ち今まで1枚1万円の金属で作っていた1万円小判に他の金属を混ぜて5000円の価値しかない小判をつくったとします。 これが流通すると、質感その他が違うし、価値が異なると誰もが気づき、良い小判は溜め込むでしょうし、質の悪い小判は手元に置いて置きたくないので、使おうとします。 だけど受け取る人は、質の悪い小判だったら2枚じゃないと1万円の価値のあるものと交換しないよ、と言うでしょうね。 だから額面上の物価があがるのです。 もうひとつのことわざ、悪貨が良貨を駆逐する。 理由はお分かりですよね。 因みに今の紙幣も昔は兌換紙幣と言って、例えば1万円 当然当時の額面は銭の単位でしょうけれど の紙幣を日銀に持っていけば1万円分の金と交換してくれました。 現在は不換紙幣なので交換してもらえません。 兌換紙幣の時はインフレは起こりませんよね。 これは質問と関係ありませんでしたね。 貨幣の元を理解すれば簡単です。 現在の貨幣で考えていては理解出来ません。 昔の貨幣は金や銀そのもを形にしたものでした。 従ってとの価値はその金属の価値と同じです。 ところが、政府が悪知恵を出して質の悪い貨幣を作りました。 即ち今まで1枚1万円の金属で作っていた1万円小判に他の金属を混ぜて5000円の価値しかない小判をつくったとします。 これが流通すると、質感その他が違うし、価値が異なると誰もが気づき、良い小判は溜め込むでしょうし、質の悪い小判は手元に置いて置きたくないので、使おうとします... A ベストアンサー ごきげんよう。 【回 答】 大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。 明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。 その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。 別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。 さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣ですが、予算案や法律案を通して政治を円滑に進めるため、衆議院の多数を占める政党と仲良くする人が出てきます。 そういう意味で「政党内閣」の原形は原敬以前に成立していました。 原敬内閣が『初の本格的政党内閣』と呼ばれるのは、原敬が「爵位をもたない」「選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ」「政党『政友会』の党首」であり、原内閣が「陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任した」内閣であったことが、「選挙によって選ばれた多数党の党首が内閣総理大臣に選ばれ、閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」という『政党内閣』の定義にほぼ近かったことによるものです。 (上記の「政党内閣」の定義は完全に正確ではない可能性がありますが、だいたいこのような内容だったかと思います) 以下、詳細な説明です。 大日本帝国憲法第10条に、「(統治権を有する)天皇が行政を行なう官僚を任免する」ということが書かれています。 かといって、天皇が内閣総理大臣を勝手に選んでいたわけでもありません。 「宮中・府中の別」という慣例がありまして、天皇は政治の世界には関与せず、行政機関である内閣の決めた方針にもとづいて「YES」と言うだけでした。 内閣総理大臣を決める時にも、天皇は、誰かが選んだ内閣総理大臣をそのまま任命するのです。 edogawa-u. kantei. wikipedia. promised-factory. html 上の一覧をご覧になればわかりますように、最初は明治維新の功労者であった人々が協議の上、内閣総理大臣や各国務大臣を務めていました。 「明治政府を作ったのは俺たちなんだ!」ということでもあり、内閣総理大臣や各国務大臣として明治初期~中期の政治を引っ張っていけるのは、この人々しかいなかったのだと推測されます。 明治維新の功労者達は、明治初期から後期にいたるまで第一線で政治を動かし続け、その後も「元老」という立場で、天皇の諮問に答える形で、国家の政策決定に関与しました。 伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌、桂太郎、西園寺公望の九人です。 その主な仕事のひとつが、内閣総理大臣が辞めた場合、次の内閣総理大臣を選ぶことです(ちなみに、法的な根拠はまったくありません)。 彼らが選んだ内閣総理大臣を、天皇が任命していました。 wikipedia. wikipedia. 選挙で選ばれた政党系議員が多数を占める衆議院は、予算案を貴族院より先に審議するので、内閣が政党と対立してしまうと、予算案が議会を通らず、政治が一気に止まってしまうのです(政党を無視して独自に政治を行なおうとす『超然主義』の方針をとる内閣と、衆議院で多数を占める政党が対立して混乱したのが、1890年代の『初期議会』と呼ばれる時期です)。 そういうシステムの中で、内閣総理大臣のなかには、政党に理解を示して協力してもらい政治を行なおうとする人が出てきました。 代表的なのは、伊藤博文、西園寺公望、大隈重信などの人物達です。 彼らは政党の党首も兼ねていたので、一応、「政党内閣」と言えなくもありません。 ですが上で述べた通り、原敬は議会で選ばれたわけではなく、やはり「元老」による推挙によって天皇から任命されています。 原敬が内閣総理大臣に選ばれた理由としては、その前の寺内正毅内閣が米騒動の対応に失敗して総辞職して、政府に対する国民の不満が高まっており、「元老」としても国民の意見を反映した内閣を作らないといけなかったこと、原敬がもともと官僚出身で、内務大臣も務めたこともあって、内閣総理大臣に任命しても行政を行なうのに問題がないこと、そして、原敬は元老や貴族院の勢力とも対立しないで上手くやれる政治家であったこと、などがあげられます。 wikipedia. wikipedia. 【回 答】 大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。 明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。 その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。 別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。 さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣... Q 短歌の句切れ、どのように見分けたらよいのかがわかりません。 感動の助詞(けりなど)がなかったら『句切れなし』なのでしょうか? 以下の句の句切れ、自分で考えても理解できず、家族や友人に聞いてもわからないと言う返事しか返ってこなく、 ネットで調べてもよくわからないので困っています。 どうぞよろしくお願いします。 ・防人に 行くはたが背と 問ふ人を 見るがともしさ 物思もせず(防人歌) ・多摩川に さらす手作り さらさらに なにそこの児の ここだかなしき(東歌) ・君待つと 吾が恋ひをれば 我がやどの すだれ動かし 秋の風吹く(額田王) ・近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古思ほゆ(柿本人麻呂) ・うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思えば(大伴家持) すべて万葉集で、とても一般的な句なのだそうですが、よくわかりません。 どうかよろしくお願いします。 A ベストアンサー 「句切れ」とは、和歌や俳句において、意味の上でいったん切れるところです。 以下のような場合があります。 1、切れ字のあるところ。 「切れ字」は、「や」「かな」「けり」など。 俳句の項目で調べると分かります。 2、係り結びの結んであるところ。 係助詞「ぞ」「なむ」「や」「か」は連体形で結び、「こそ」は已然形で結ぶ。 3、終止形や命令形で言い切っているところ。 4、体言止めで言い切っているところ。 ただし、体言で句が終わっていても、そこへ「を」「に」などの助詞を補ってあとの句へ意味がつながるような場合は、ここを句切れとは考えません。 5、倒置法のあるところ。 6、呼び掛け法のあるところ。 韻文の場合、芸術的に感心できませんが、一応、「解釈(分かりやすい現代語に訳す)」をしてみると、句切れも分かるかと思います。 *防人に・・・ あの九州の警備兵として徴兵されていくのは誰の旦那さんかしらね、と訊く人を、見ることのうらやましさと言ったらないよ。 なんの悩み事もなくて(あの防人は私の夫なのだよ、私には危険な国境に夫を送り出すという悩みがあるのだ)。 *多摩川に・・・ 多摩川に晒して作る布を見ていた。 その「さらす」という音でふと思い出したが、さらにさらにどうしてあの子がこんなに恋しいのだろうか。 *君待つと・・・ 恋人のあなたの訪れを待って私があなたを恋い慕っていると、私の家の簾を動かして、あなたの代わりに秋の風が訪れ、あなたはまだ来ないのだった。 ちなみに、古今集以降だと、「秋風」を「飽き」との掛詞(かけことば)と考えて、恋人の訪れがないのを、恋人とが自分に「飽き」たからだ、と、別れや失恋を暗示するのですが、万葉集だとそこまで読むのは深読みと考えられるでしょう。 単に季節がほんとに秋だっただけ。 女心の寂しさは詠み込まれているけど。 *近江の海・・・ 琵琶湖に夕方立つさざ波に群れ遊んでいる千鳥たちよ、お前が鳴くと、私はひどくしみじみと悲しくなって、昔のことが偲ばれてならないよ。 *うらうらに・・・ うららかに照っている春の陽射しに雲雀が空高く舞い上がり、私の心はいっそう悲しいなあ。 一人ぼっちで物思いに耽っているので。 春の憂愁(メランコリー)を詠い、万葉集としてはかなり進んだ、中古的美意識をもって詠んだ歌。 雲雀の楽しそうなさえずりと、自分の憂鬱な物思いとの対比。 万葉集の和歌には、二句や四句の偶数で句切れのある歌が多いのです。 五七/五七/七 と「五七」のリズムが強調されるので、「五七調」と呼ばれます。 (古今集以降の和歌は、初句や三句の奇数句で句切れのある歌が多く、五/七五/七七と「七五」のリズムが強調されて、「七五調」と呼ばれます) 五七調の和歌は、五音という軽い上半身を、七音という重い下半身でしっかりと支えるので、歌体が安定し、堂々とした力強い響きをもたらします。 七五調の和歌は、反対に、七音という重い上半身が、五音という軽い下半身の上に乗っかる格好になるので、歌体はふらつき、なよなよとした流麗な流れの良い歌になります。 「句切れ」とは、和歌や俳句において、意味の上でいったん切れるところです。 以下のような場合があります。 1、切れ字のあるところ。 「切れ字」は、「や」「かな」「けり」など。 俳句の項目で調べると分かります。 2、係り結びの結んであるところ。 係助詞「ぞ」「なむ」「や」「か」は連体形で結び、「こそ」は已然形で結ぶ...

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