乾隆 帝 子供。 えいらく(瓔珞)中国ドラマのあらすじやキャストは?最終回ネタバレも!

康煕帝の諸皇子

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後金の成立と清の中国支配 (瀋陽故宮:より) 17世紀前半、現在の中国東北地方にあたる 満州で 女真族を統一したのがヌルハチでした。 1616年に 後金を建国した ヌルハチは八旗とよばれる軍事組織を整備し、サルフの戦いで明の大軍を撃破。 瀋陽を都として中国東北地方の支配を固めます。 1623年に即位した ホンタイジは内モンゴルの チャハル部を平定。 翌年に国号を清と改めました。 1637年には朝鮮を服属させ、背後から攻められないようにします。 このころ、 明では 李自成の乱がおきていました。 しかし、万里の長城の守りが固く、ホンタイジは中国本土に攻め込むことはできません。 ホンタイジの時代、服属した諸地域を支配するため 理藩院が置かれます。 清独特の役所なので注意が必要ですね。 明の詳しい話は前回の「」に詳しく書いています。 1643年、ホンタイジが亡くなると 順治帝が跡を継ぎました。 順治帝と摂政のドルゴンは明の混乱状態に付け込むすきを慎重に待ちます。 1644年、李自成の反乱軍はついに北京を陥落させます。 李自成は皇帝を名乗り新しい国を作ろうとしました。 しかし一方、清と明の国境にあたる 万里の長城の山海関では、 明の守将呉三桂は清に降伏します。 山海関を開け放って清軍とともに北京を目指しました。 李自成は清と 呉三桂の軍団に敗北します。 かわって、 順治帝が北京に入城しました。 順治帝は敵と味方を判別させるため、北方民族の風習である 辮髪を全国民に強要し、従わないものを処刑しました。 こうした、清(後金)の背景には、「八旗」と呼ばれる軍事システムがあり絶大な軍事力がありました。 そこで、満州の女真族が「八旗」というシステムとともにどのように「清」という帝国を作っていったのか詳しい研究書として「 」という本がおすすめです。 清についてより深く史実の史料に基づき知りたい方はおすすめです。 康熙帝の治世 (康熙帝:より) 1661年、康熙帝が即位した時、 鄭成功がオランダ人勢力を台湾から駆逐。 反清復明運動の中心とします。 その12年後の1673年、康熙帝は呉三桂ら3人の藩王国を取り潰そうとしたため、呉三桂らは清に反旗を翻しました。 これが 三藩の乱です。 康熙帝は8年がかりで反乱を鎮圧します。 1683年には台湾の鄭一族も降伏。 これにより清の中国支配を確たるものとします。 その一方、東方に領土を拡大していたロシア帝国とは ネルチンスク条約を締結。 アルグン川と外興安嶺山脈を両国の国境としました。 康熙帝は財政面でも改革を実行。 無駄な出費を減らします。 その結果、康熙帝の治世には何度も減税を実施。 人頭税である丁税を事実上廃止する 盛世滋生人丁を実施します。 具体的には、1711年を記念してこの年以降に生まれた人には人頭税を課税しないという減税策です。 その後、雍正帝時代に地租と一本化され 地丁銀制度となりました。 清の時代、カトリック、特にイエズス会の宣教師が清に入り布教を行いました。 その際、イエズス会は中国の祖先崇拝の習慣や習俗などを認めつつキリスト教を布教します。 この 中国の習慣・風俗を典礼といいました。 フランチェスコ会やドミニコ会など後発の修道会はイエズス会のやり方を批判し教皇に訴えます。 教皇も典礼を否定しました。 雍正帝の治世 (雍正帝:より) 1722年、康熙帝が亡くなり 雍正帝が即位しました。 雍正帝は朝の4時から夜の12時まで政務に励む実務型の皇帝です。 1724年、雍正帝は 全面的なキリスト教の布教禁止を決定します。 宣教師をマカオに追放する処分をくだします。 1727年、雍正帝はロシアと キャフタ条約を締結。 モンゴル方面での国境を画定しました。 ネルチンスク条約とあわせて、ロシアとの国境線がおおむね定まったといってよいでしょう。 雍正帝時代に設置された重要な役所は 軍機処です。 雍正帝がジュンガル討伐のために置いた臨時の本営が軍機処の始まりです。 軍機処のトップである 軍機大臣は行政面での皇帝の補佐役である内閣大学士を上回る力を持つようになります。 清の時代、 反清朝・反満州人の内容を記載した書物は厳しい取り締まりの対象となりました。 これを 文字の獄といいます。 文字の獄は康熙帝に始まりますが、厳しくなったのは雍正帝の時代でした。 文字の獄は乾隆帝以後の皇帝たちにも受け継がれます。 乾隆帝の治世 (乾隆帝:より) 1735年、乾隆帝が即位しました。 乾隆帝の時代は清朝の最盛期とされます。 1758年にはたびたび戦いを繰り広げた ジュンガルを平定します。 この地域を新疆と名付け支配します。 1757年、乾隆帝は貿易をヨーロッパとの貿易を広州1港に限定します。 これに対し、イギリスは1793年に マカートニーを派遣して通商拡大を求めますが、乾隆帝は拒否します。 マカートニーの中国訪問については「 」が東洋文庫から出ています。 当時の中国の様子がかなり細かく分かり面白いです。 一部紹介します。 貧民の間では子供を捨てることが普通に行なわれている、と中国の歴史を書いたほとんどすべての書物に出てくるが、彼はそれを事実であると認めた。 警察は毎朝早く荷車を一台出して町をまわらせる。 荷車は捨て子を拾いあげて、彼らを埋葬するための穴、すなわち墓地へ運ぶ。 宣教師たちはしばしばその場に立ち会って、健康そうで元気を回復しそうな子供を二、三人引き取って保護する。 残りは、生きていようが死んでいようがおかまいなく、穴の中へ投げこまれる。 (省略)中国人は久しく前からわれわれのヴァイオリンを取り入れている。 もっとも、まだ普及しているわけではない。 また、このごろでは彼らの音楽を罫紙に記すことを習い覚えている。 このことから察せられるのは、彼らは虚栄心や自惚れが強いが、教えを受けることを満更拒もうとしない事柄が多少はあるということである。 『中国訪問使節日記』より (生徒による私の似顔絵…似てない…) こんにちは。 emitaと言います。 現役の某私立高校で教員をしております。 現役中高生のみならず学び直しをしたい大人の方々のために教育系ブログをはじめました。 このブログを通じてみなさんの学力が上がれば嬉しいです。 疑問・質問は。 詳しいプロフィールは• 教師になった経緯は• 好きな言葉:継続は力なり• 趣味:読書、問題研究、ランニング カテゴリー• 記事の更新日.

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【世界史B】ヌルハチから康煕帝、雍正帝、乾隆帝までの清代皇帝について知るべき4つの点【受験に役立つ中国史】

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康熙帝、乾隆帝ともに在位60年を超える大帝と呼ぶに相応しい名君ですが、乾隆帝の末期の腐敗から清朝の衰退が始まったことを考えると、やはり1番偉大なのは康熙帝でしょうかね。 モンゴルやチベットを攻略し、ロシアとも国土策定を行いました。 その前の2代目順治帝は若くして出家してしまったので、実質的に清朝の中国統一を確固たるものにしたのはやはり康熙帝だと思いますね。 西太后は政治面ではかなりの保守派で、清朝の古い体制の維持に務めただけでした。 その点は則天武后とは真逆ですね。 則天武后は新しいことをやり過ぎて失敗しましたが、西太后は逆に新しいことをなにもしなかったせいで時代に取り残された清は滅亡したのです。 そういう意味で彼女が政治面で優れていたとは御世辞にも言えないと思います。 やはり歴代清王朝の中でも皇帝として最長在位記録を誇り、事実上清王朝による 中国大陸制覇をなしとげた聖祖康熙帝でしょう。 清王朝が滅亡した明に代わって首都である北京に入城したのは、清の世祖順治 帝の時代ですが、順治帝は24歳の若さで若死にしてしまいましたから 世を忍ぶ ために出家したという説が昔から根強くありますが、公式記録ではあくまでも天然 痘による逝去です 、漢族出身の将軍たちの反乱である三藩の乱を鎮圧したり、 明の遺臣鄭成功一族が支配する台湾を制圧して中国大陸全土を統一し、実質的 な初代皇帝として清王朝による中国大陸支配の基礎を築き上げた康熙帝のすぐ れた偉業は、歴代皇帝の中でもやはり抜きん出ていると言えます。 次の皇帝である雍正帝も、実は父である康熙帝に勝るとも劣らぬほど皇帝として 優れた業績を上げていて、また人格的にも「名君」の名にふさわしい謙虚で寛容な 心をあわせ持つ偉大な帝王だったのですが、父である康熙帝や息子の乾隆帝の 60年という在位年数にくらべて、いかんせん治世の期間が13年と短すぎることが、 帝王としての資質を評価するさいのネックとなります。 もし雍正帝が、父や息子並みに長期間皇帝の位に留まることができたなら、父で ある康熙帝と同等の評価を得られたことでしょう。 次の皇帝である乾隆帝の時代には、清王朝の治世は最盛期を迎え、清の国力は 政治的にも文化的にも文字通り最高点に達しますが、これは乾隆帝自身の善政 はもちろんのこと、実はそれ以上に康熙・雍正時代のすぐれた治世の遺産による 部分が非常に大きかったことは否定できません。 乾隆帝自身はもちろん清の三賢帝の一人に数えられるくらいですから、在世中に しばしば優れた政治的手腕を発揮しましたが、しかし乾隆帝は同時に派手な武功 を求めて、父祖や父が行なわなかったような異民族に対する大規模な軍事行動を たびたび行なっています。 こうした軍事行動は、結果としてのちに清王朝の財政を 逼迫させる遠因となりました。 また、乾隆帝は治世の後半になると側近に宦官 男性器を切り取って去勢されて から宮庭に入り、雑用係として皇帝のそば近くに使える身分の者 を重用するよう になり、そのため皇帝に取り入ろうとする者が宦官に賄賂を贈るなどして宮廷内の 規律が乱れるなど、政治的な風紀が乱れ、のちに清王朝の政治を退廃させる原因 を作ってもいます。 そしてこうした宮庭内の政治や道徳のゆるみに呼応して、乾隆帝時代の末期には、 白蓮教徒の乱や辺境地域における少数民族の反乱が相次いで発生しています。 特に白蓮教徒の乱は大規模かつ深刻なもので、反乱軍の一部が都である北京に 迫り、反徒の放った矢が皇帝の住む紫禁城の城壁に突き刺さるなど、のちの清王 朝の衰退を予感させるような事態が発生しています。 乾隆帝は88歳まで長生きしましたが、実際問題として80歳をすぎてからの乾隆帝 は、皇帝の位をしりぞいてからも院政を敷いて裏から権力を操るなど、宮庭内で ただ老害をまき散らすだけの存在と化していました。 こうした事実を考え合わせると、乾隆帝の治世は、社会全体が爛熟して清の国力 がそのピークを迎えた時期であったと同時に、皇帝である乾隆帝がのちの清王朝 衰退の原因となるような失政をいくつも行なっていることから、専制君主としての 乾隆帝については、祖父である康熙帝や父・雍正帝よりも優れた帝王であったと 評価することはできないように思います。

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乾隆帝の生母について─甄嬛のモデル、海寧陳氏の元ネタ─

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宮廷の諍い女を見ていくつか疑問に思ったことがあるのですが・・・ 清朝の皇帝はどれぐらい妃嬪がいたのでしょうか?多い皇帝から少ない皇帝まで教えてもらえれば嬉しいです。 また、冷宮送りや、謹慎処分など妃嬪に対してあんなひどい扱いだったんでしょうか? 質問が多いですが少しでも答えてくださる方どうかおねがいします >人<; 清朝中期ごろの後宮には、皇后(唯一頭が上がらない皇帝の母親皇大后は別にして)を頂点として、貴嬪、宮女、召使を含めた数百人の女性と皇帝の子供達、それに傅く400~3000人の宦官が唯一の男性である皇帝が死ぬまで暮らしていたとされます。 康熙帝の頃から妃嬪は定員制だったらしく 皇后1人 (仕える宮女10人) 皇貴妃1人 (宮女8人) 貴妃兩人 (定員2人、宮女8人) 妃4人 (宮女6人) 嬪6人 (宮女6人) 貴人不限人つまり制限なし(宮女人数不明) 常在(じょうざい)(制限なし、宮女2人) 答應(とうおう)(制限なし、宮女1人) とされ、貴人以下は定員はなかったので 清朝全盛期と評価される乾隆帝には総勢39人がいたとされ、 清朝平均24人いたといわれるそうです。 乾隆帝には88歳まで生きたこともあって、 男子17人女子10人の子供を設けたという記録もありますし、 女子は「子供の数に数えない」とされて女子は 年頃になると貴族と結婚させられて宮廷から出されたそうなので、 妃嬪の数は本当はもっといたかもしれませんね。 子供の数が多い康熙帝(68歳没)は、息子(皇子)が35人。 娘(公主)が20人とされ、 宮廷でも約半分の子供が病気で夭逝する時代だったそうですから、 妃嬪の数は恐らく6~70人いたんじゃないでしょうか? 妃嬪の階級ごとに、身の回りの世話をするお付の宮女や宦官の人数、手当の金額、儀式時の座席の順番、洋服のデザイン、色などが決まり、皇帝の寵愛を受けたり、皇太子を生むと「妃」から「貴妃」に昇進するそうですし、皇太后以外の女性のトップなんですから傲慢になるでしょうね。 ドラマでは違う設定にしてるみたいですが、 皇太后、皇后以外の貴嬪は実際は宮中では何の地位もなく、 女官達は第二婦人以下には挨拶してはならない決まりもあったそうです。 完全な縦社会ですから階級が下の者の生殺与奪権を握ってるようなもので。 極端な話箸の上げ下げも上の階級の者の気分とかで変ったんじゃないんではないでしょうか? 参考までに後宮制度は,周王朝より始まり、 周制では、 后の下に3夫人・9嬪・27世婦・81御妻が置かれたとされます。 后妃にも爵位が与えられ、魏晋以降は品等も与えられたそうです。 後宮制度 Wiki中国語版に清朝各皇帝の妃嬪の数が載っていました。 載湉として載っている)の3名、のようです。 但し、記録で確認できるもののみが載っている可能性はあるかもしれません。 具体的な権限については知識がないので、他の方にお任せします。 ただし、 満・蒙・漢の八旗から妃嬪が選ばれるので、「漢族出身者がいない」なんて事は全然ありません。 (実際に、嘉慶帝の生母は漢族出身です。 (これは清朝に限ったことではありません。 ) このドラマはそもそも前提が間違ってるので史実と比較した場合、創作した部分が多いです。 前提とはつまり主人公設定・・・・・。 清の皇帝の后妃はほぼ八旗の一族から選ばれるので漢族出身者はいません。 漢族には纏足の慣習があるのでそもそも宮廷で歩き回るなどと言う事自体が出来ない。 後宮を管理してるのは女性ではなく去勢された宦官です。 だから皇妃が宦官を使いと言う事は在ったかもしれませんが西太后のような例はかなり稀な例です。 (だから必要以上に残虐に伝わってたりする) 後宮に入った女性に基本的に宮殿の門を管理する権限は無いです。 後宮の順位は一番上から皇貴妃(1人)>貴妃(2人)>妃(4人)>嬪(6人)>以下定員なしで・貴人>常在>応答となります。

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