まやかし 戦争。 [B! Wikipedia] まやかし戦争

まやかし戦争

まやかし 戦争

第二次大戦下、イギリス本土で暮らしていた一般市民たるイギリス人は、どのような人生経験をしたのだろうか。 第二次大戦下のイギリスにおけるいわゆる「国内戦線 Home Front 」については、多くの英語文献が蓄積されてきている。 とくに、空襲体験、疎開体験、軍需工場での労働体験などが社会や人びとにもたらしたさまざまな影響については、研究も多い。 しかし、余暇の経験ということになると、一般向けに書かれた本や、ラジオや映画といった個別のメディアや事象に対象を絞った学術研究は少なからず出されているのに、意外なことに全体を俯瞰した学術研究はいまだにまとめられたものがないのである。 日本においても、ドイツを対象にしたものは多いものの、イギリスの戦時経験を対象にした歴史研究は実に少ないように思われる。 ここでは、人びとの余暇経験という側面に焦点を当てながら、これまでの先行研究および各種一次史料の紹介という形をとって、イギリス人の第二次大戦経験をスナップショット的に見ていくことにしたい。 Crang, eds. , Listening to Britain: Home Intelligence Reports on Britain's Finest Hour ー May to September 1940 London: Vintage, 2011 pbk edition. 1940年の春は、イギリス国民が第二次世界大戦の脅威を身にしみるかたちで認識し始めた時期である。 対独戦争は、1939年の9月に始まってはいた。 映画館などの娯楽施設は直ちに閉鎖され、都会の子どもたちの集団疎開も実施された。 しかし、1940年の春になるまで、本国内で生活する国民が戦争を身近に感じる機会は多くはなかった。 映画館の閉鎖にはただちに抗議の声が上がり、もまもなく再開されることになった。 疎開した子どもたちも、多くが自宅に戻ってきてしまう。 この時期が「まやかしの戦争」と呼ばれるのはそのためである。 戦争はヨーロッパ大陸の出来事にすぎなかった。 イギリス国民が危機感を広く共有し始めたのは、ドイツが4月9日にノルウェーとデンマークを侵攻・占領し、続いて5月にはフランスへの侵攻を開始してからである。 チェンバレン首相は辞任してチャーチル率いる挙国一致内閣が成立(5月10日)したが、6月にはイタリアが対英宣戦布告したうえ、続いてフランスがドイツに降伏した。 この間、5月21日の夕刻6時のニュースでは「ひとつの奇跡のみがフランスを救う」とアナウンスされ、イギリス国民のあいだには動揺が広まった。 26日にはフランスのダンケルクから、フランスに送られていた英国海外派遣軍(British Expeditionary Force)を中心にした連合軍の救出作戦が開始され、6月4日までにイギリス兵22万2,658人を含む33万8,226人が英仏海峡を渡ってイギリスに逃れたのである。 その後、7月にはイギリス王室保護領のチャンネル諸島がドイツに占領され、イギリス本土へのドイツ空軍の空襲が始まった。 「ブリテンの戦い」である。 本書は、こうしたドイツによる本土侵攻の危機が最も迫った時期のイギリス国民の士気について、イギリス情報省の国内諜報部が情報を収集してまとめ、日曜日を除く毎日作成していた報告書を活字化した史料集である。 イギリス情報省は対独戦争の始まった1939年9月に設立され、同年12月にメアリー・アダムズをトップに国内諜報部は設立された。 驚くべきことだが、国内諜報部の組織およびその後の活動は、彼女一人が作り上げたものだと言っていいと編者は序文で記している。 アダムズは戦前BBCテレビのプロデューサーだったが、テレビ放送は開戦前にすでに閉鎖されていた。 夫は保守党下院議員で強固な反宥和政策論者だったヴィヴィアン・アダムズだったが、彼女自身は社会主義者であり、ロマンティックな共産主義者でもあり、無神論者で、人道主義者だったというところもおもしろい。 そんな彼女が調査を委嘱した先は、マス・オブザヴェイション Mass Observation だった。 マス・オブザヴェイションは、1937年に人類学者のトム・ハリソン(Tom Harrison 、詩人で社会学者となるチャールズ・マッジ Charles Madge 、詩人でドキュメンタリー映像作家のハンフリー・ジェニングス Humphrey Jennings によって設立された組織で、イギリス民衆の思考、信念、態度、慣習、趣向などをユニークな調査方法で記録する活動を展開していた。 第二次大戦後には、マーケティング会社となる組織であるが、戦前・戦中の調査活動は実にユニークで、そこで集められた記録は、イギリス20世紀史を研究する歴史家たちに不可欠な貴重な同時代史料となっている。 それらの史料はいま、イングランド南部にあるサセックス大学の「マス・オブザヴェイション文書館」に所蔵されている。 本書に収められた史料は、国立文書館の所蔵史料を基本にしているが、マス・オブザヴェイション文書館にあるメアリー・アダムズ文書によって補足されている。 前置きが長くなったが、イギリスの戦時下の情報省についてきちんと紹介された日本語文献はないと思うので、いたしかたない。 この史料集を読むと、イギリス各地の人びとが、戦時下にどのような不平不満や怒り、不安と心配を持ち、そこからどんな噂話が生まれてくるのかがかなりの程度わかる。 イギリス政府は、敗北も含めて国民におおむね正しい戦況を伝えていたが、ダンケルク撤退時など詳しい説明が欠如しがちだった際にはさまざまな噂話が生み出されている。 人びとは、配給となった食糧にも飢えていたが、情報にも飢え、不満を持ちがちだった。 「不平を言うのはイギリス人の伝統」と言ってはばからない国民もいた。 だが、さまざまな自由の権利が誰にでも適用されるべきだと考えられていたわけでもない。 イタリアとの開戦後になると、ドイツから逃れてきたユダヤ人難民ばかりでなく、イギリスに移住してきて数世代になるイタリア系住民に対する敵対心も高まった。 イタリア系住民が経営していた多くのお菓子屋さんやアイスクリーム・ショップが暴徒に破壊された。 イギリスポップ・アートの父といわれ、戦後のイギリスを代表する彫刻家であるエデュアルド・パオロッツィ(Edualdo Paolozzi)もそうした戦時体験を持っている一人である。 良心的徴兵忌避者もまた、嫌悪・憎悪の対象となった。 労働者階級の間に、いわゆる「適性外国人」に対する反感はより強かったようだ。 余暇の問題も、士気の問題とおおいに関連してとらえられていたことがわかる。 たとえば、楽しみを目的とした自動車での遠出を非難する声を国内諜報部はとらえている。 ガソリンの無駄使いであり、非愛国的な行為だとみる国民は少なくなかった。 BBCが自転車競技のスポーツの結果を報じた時には、無駄な放送をしているとの批判があがった。 一方で、余暇の必要も隠せぬ事実だった。 政府が春の祝日である聖霊降臨日を平日として過ごしてほしいと訴えたにもかかわらず、多くの国民はこれを無視したし、政府やBBCに人びとが求めたのは、愛国的なお説教ではなく、率直な事実の報道とたっぷりの娯楽番組だった。 週単位で省が区切られ、それぞれに編者による戦局を中心にした背景説明が付されている。 索引も充実している。 こういう史料集がパーパーバックで出されているところがいい。 Voices from the Home Front Stroud: Sutton Publishing, 2006 pbk edition. この本は、35人の第二次大戦経験者にたいして行なったインタビューの記録をまとめた史料集といえるものである。 著者は都合100人ほどにインタビューしているが、35人以外はごく断片的にしか取り上げられていない。 著者がとくに記録しようとしたのは、子どもおよび大人の学校生活、女性の労働生活、そして戦争反対者の経験の三つであることが、この本の特徴だ。 とくに、戦争に反対した平和主義者たちの記録が収められていることが貴重である。 本書に収録された多くの回想では、余暇の経験についてもふれられている。 ラジオ聴取や映画鑑賞、ダンスにふれたものが多いが、芝居やコンサート、飲酒やホリデーの思い出を語っているものもある。 地域、階級、ジェンダー、年齢、家族構成などによって、余暇経験は多様であることがわかるが、ラジオ(BBC)の存在の大きさは共通している。

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まやかし戦争 : definition of まやかし戦争 and synonyms of まやかし戦争 (Japanese)

まやかし 戦争

経過 [ ] 国境でのにらみ合い [ ] 1939年9月1日にドイツがに侵攻すると、9月3日にフランスとイギリスはドイツに対しし、軍を動員してフランス・ドイツ国境およびフランス・国境沿いに大規模な陸軍部隊を展開した。 一方のドイツ陸軍は、主力をポーランド方面に進撃させたため、弱体な兵力が西部国境沿いに展開しているだけであった。 空軍も数十機を有するのみで、もし英仏軍が一挙に攻勢に出れば簡単にせん滅されかねなかった。 実際にドイツ軍首脳部は、西部戦線防衛のために大軍を配備するべきだと主張したが、総統は、英仏軍が攻撃して来る可能性は皆無と判断し、ドイツ軍主力をポーランドに集中し、独仏国境線の戦力をわざと薄くしたのである。 ポーランドは約1ヶ月でドイツおよびに占領されるが、この後1940年5月にドイツが西方諸国に侵攻するまで、フランス・ドイツ国境地帯においては英仏軍は、ヒトラーの予想通り、フランス軍がドイツにごく小規模な侵攻(2000人程度の部隊)を行ない、すぐに撤退したことを除けば攻撃を行なわず、陸上戦闘は生じなかった。 イギリスとフランスは、ドイツとポーランドの開戦前にポーランドと軍事協定を結び、ドイツからポーランドに攻撃があった場合は直ちにドイツを攻撃すると約束しており、ドイツ・ポーランド開戦後は対独攻撃に入ったかのように宣伝していたが 、実際には戦闘行動は取っていなかった。 ドイツ軍のポーランド侵攻作戦が行なわれていた1ヶ月ほどの間は、西部戦線において英仏軍はドイツ軍に対して圧倒的な優位にあった。 ポーランド戦争が終わるとドイツ軍は主力を西部に移したので、英仏がドイツに打ち勝つ唯一の機会は失われたものの、その後も両軍は国境でのにらみ合いに終始した。 戦闘休止状態が長引くにつれ、国境をはさんで対峙する将兵たちにも戦意の低下が見られ、双方の兵士たちがタバコや菓子を交換し合うような光景も珍しくなくなり、敵前で堂々と日向ぼっこをするようにもなった。 戦争状態にあり、しかも国境を接しているにもかかわらず戦闘が生じないことから「 まやかし戦争(いかさま戦争)」との名称が生じた。 また、開戦後間もなくイギリス国内では灯火管制が敷かれたが、わずかな期間を以って解除された ほか、さらにイギリスでは議会からドイツに対する空襲を行なうよう通告があったものの、内閣はこれに対する報復を恐れ拒否した。 戦闘行為 [ ] ただし、海上ではのによりフランスやイギリスの艦艇に対するや、(ドイツ艦グラフ・シュペーがイギリス艦と交戦の後自沈した)など活発な戦闘が発生しており、北欧では(1939年11月末、ソ連がフィンランドに侵攻した)やドイツ軍によるが行なわれていた他、イギリスでは戦時予算が議会で承認されたことを受けて、や、海軍艦艇の生産が急ピッチで進められていた。 さらにには、()の「」が、ハワイ()のからに向けて航行中に、 (千葉県)沖の上での「」によりされ、当時日本とによる同盟関係を結んでいたドイツ人乗客のうち、兵役につく事ができる年齢の21名が連れ去られるという事件がおき、当時関係が悪化していた日本とイギリスの間において大きな国際問題に発展した()。 休戦状態は8ヶ月以上も続いたが、1940年5月10日以降、ドイツ軍がベネルクス3国及びフランスに対して全面攻撃に出て終わった。 原因 [ ] 笹本駿二(ささもとしゅんじ) は、イギリス・フランスなど主要国が、戦前からドイツに対する宥和政策を取って、ドイツの勢力拡張や軍事行動の防止に消極的であったこと や、とりわけフランスが、第一次世界大戦で多大の損害を出しながらもめぼしい戦果を挙げられなかったため、新たな戦争に及び腰になっていた事を指摘している。 ヒトラーがポーランド侵攻に兵力の大部分を投入し、独仏国境にはわずかな留守部隊しか置かなかったのも、そうしたフランスの状況を見抜いていたからだと言う。 さらに、フランス側はドイツ軍の兵力を過大評価し、ポーランド戦争の間も強力なドイツ軍が西部戦線に配備されていると判断したため、対独攻撃にいっそう消極的となったとも書いている。 ドイツ側では、ヒトラーは、西部戦線のドイツ軍戦力が充実した1939年11月に攻撃開始を考えていた。 軍首脳部は準備不足を理由に反対し、1940年春を主張したが、ヒトラーはそれを押し切り、11月の進撃を決めた。 だが悪天候のため、に不可欠な空軍の出撃ができず、延期を重ねるうちに冬となり、結局1940年5月に実現した。 参考文献 [ ]• 笹本駿二 『第二次世界大戦前夜』 岩波新書 1969年• 笹本駿二 『第二次世界大戦下のヨーロッパ』 岩波新書 1970年•

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奇妙な戦争

まやかし 戦争

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